2015年9月14日(月)
異文化の受容とはⅠ
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 異文化交流に関心がある。日本が明治を迎えると同時に欧米圏の、特に宣教師たちはキリスト教を伝える目的で日本に進出して来た。宣教師の思いは実に純粋であった。世界を見ると、政治家はその彼らを利用して政治的目論見を持って植民地化などの侵略を果たした国、地域もあった。日本は宣教師に関係なく中国・台湾・韓国を植民地化した。日本は他国を植民地化したが自国はされなかった。(こんなに簡単に言うべきことではないが)
 私が勤めた学校は1889(明治22)年創立された女子校であった。2015年で126年経つ。創立には地元の若者たち(代表者は25歳) が地元で資金を集め、女子の学校を建てるべく奔走した。しかし教育を担うべき教師をカナダの宣教師会に派遣を頼んだ。カナダの宣教師会は25歳の教育と訓練を受けた女性を派遣してきた。
 カナダの宣教師の教育を受けた女子校生は学校教育の中でどのように異文化を受け入れていったのだろうか。「欧米かぶれ」と揶揄されながらも異文化をどのように受容していったのだろうか。
 恵まれた境遇にあった女子とはいえ女子蔑視のまだまだ強かった明治の時代。家の都合で遅刻をやむなくしても弁明ができない。ただメソメソ泣いて窮状を凌ごうとする。そんな女の子に対し、宣教師たちは近代に生きる女子は時間をきっちり守ること。すぐ泣かないこと。規則正しく、片付けをきちんとして生活する。廊下を走らず、大きい声で話さない。昨2014年朝ドラの「アンと花子」の村岡(安中)花子が受けた東京の東洋英和の教育もまさしくそのような教育で、花子の時代の校長ブラックモア(ドラマでは別名。山梨英和で二代目の校長でもあった)は厳しくお仕置きをする規則の権化のような教育を信条としていた。こういう教育が昨年は全国に知らされた。そして、英語教育は宣教師譲りの発音で、ネイティブのように教育された。
 浅川伯教の糟糠の妻たか代はそんな山梨英和を1905(明治38)年卒業し、東洋英和の高等科(3年)に進んでさらに勉学した。そこではブラックモア校長の下、村岡(安中)花子と3年間一緒の寄宿舎生活を過ごし、先に卒業している。村岡(安中)花子は卒業後、山梨英和の教員として5年間勤めた。
 浅川たか代は日本の植民地化朝鮮の京城(ソウル)で、夫伯教が鉄砲玉のように陶磁器研究(窯跡や陶片の採集)に出かけている間を今の梨花女子高校などで教員をしつつ支えた。娘さんの話では100円位の給与で、子どもたちを育てたという。当時内地の給与でも30円40円位だったそうなので、朝鮮での給与は恵まれていた。それも教育を受けていたから出来たこと。たか代は1970(昭和45)年1月83歳で亡くなるまで、コーヒーはカッフェとネイティブ発音であったと聞く。伯教と揃ってクリスチャンであり、聖書を読むこととお茶のお点前を日常的にたしなむ生活で晩年を過ごした。お茶を楽しむことはお手前をするときだけでなく、お茶の作法で生きること、生活することが日常であった。出かける時、三つ指ついて夫伯教へのあいさつなど、教育の力が生活の背骨になっていた。西洋の宣教師の先生方の信仰と教育の姿勢、近代女性として生きる生活の姿勢、聖書に聴くことで信仰を深め、実践する。このように欧米文化をもたらした宣教師の姿勢を受容し、一生を貫いて行った浅川たか代を異文化の賜物を受容して生きた女性として、私は尊敬している。
 
 
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