2016年1月4日(月)
2016『浅川巧日記』を読み解く4
浅川巧日記を読み解く
一月四日 晴、寒い日
 暫く着馴れた朝鮮服を洋服に着替へた為か随分寒かつた。柳、水谷川両氏と博物館で待合わせて美術館を見た。午後は柳さんと二人で日本人の骨董屋を廻つた。晩飯を支那料理杏芳園で済して次は今村邸に小場さんや東亜日報の劉さん嫂など集つて柳、水谷川氏も一緒に随分話しがはづんだ。

 暫く着馴れた朝鮮服を洋服に着替へた為か随分寒かつた。巧は朝鮮に来ても日本方式の生活やその態度を崩さない多くの日本人と違って、朝鮮服を着てみたら意外と寒いときは暖かい。その機能性に目覚めて日常的に着ていたことが日記に残っている。今日一番に書いたのはよっぽど寒かったのだろう。
 今村邸は今村武志、朝鮮総督府専売局長で柳宗悦の妹千枝子の夫。妹の家なので行きやすいのであろうか。妹千枝子は前年1921(大正10)年京城でお産の後没している。
 木場さんは木場常吉、朝鮮美術工芸の収集家であり、研究者。慶州の発掘も行っていることが日記に書かれている。
 東亜日報の劉さん、東亜日報、現大韓民国の日刊新聞。日本統治時代の1920年4月1日に創刊。本社をソウル特別市鍾路区に置く。朝鮮日報、中央日報とともに韓国の三大紙と称されている。3.1独立運動以降の朝鮮総督府による「文治政治」の潮流に乗って、金性洙・朴泳孝など政財界の朝鮮人有力者が中心となって1920年4月1日に創刊した。この時、社是として「民主主義・民族主義・文化主義」を掲げ、現在まで続いている。劉さんは記者かどうかわからない。
 は兄嫁で伯教の妻たか代。たか代と伯教は甲府メソジスト教会でたか代がまだ10代で山梨英和女学校のころ知り合っていた。たか代は現韮崎市穂坂町の大地主で南北朝以来の家柄の三枝善兵衛の長女として生まれたが、たか代16歳の時父を亡くし、弟が家督を継ぐ。たか代卒業の3月洗礼を受け4月から東京の東洋英和高等科に進学し、英語を磨く。その時の3年間の寮生活で村岡花子と共に学ぶ。卒業後はメソジストの宣教師の通訳などで長野の上田にも行っている。結婚は伯教30歳、たか代27歳で当時としては遅い結婚であった。しかし先に朝鮮に渡った伯教が迎えに来るように翌年甲府メソジスト教会で結婚し、2男2女に恵まれた。伯教が教員を辞めて陶磁器研究に専念出来たのもたか代が梨花学堂(現梨花女子高校)や淑明女学校に勤めて(当時100円位を得てと二女美恵子さん談)
生活を支えた。英語力は高く晩年でも英字新聞を読み、発音もコーヒーはカッフェであったと孫も語る。茶道に秀で日常そのものがお茶の世界であった。
 宗悦は1921年1月、『白樺』に「朝鮮民族美術館設立について」を発表し世間に宣言した。柳は朝鮮の芸術品は朝鮮の土地、朝鮮の建物の中に置くべきだという信念を持っていた。その準備を進めている様子がこの大正11年の日記からも読み取れる。

 
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