2016年1月13日(水)
2016『浅川巧日記』を読み解く13
『浅川巧日記』を読む解く(13)
一月十三日
 午前中事務所で播種造林の試験の仕様書を書いて午後本府へそれを持つて行つた。朝鮮服を着て居たので本府の玄関で巡査にとがめられた。一寸いやな気がした。夕方赤羽君が来たので二人で晩飯をした。貰つた鶏や豚の肉で薬酒を飲んだ。夜はまた森永、赤羽諸兄夜は又森永、赤羽諸兄と柳さん処に会して展覧会の画の準備をした。赤羽君は僕の家に来て寝た。


午前中事務所で」の事務所は清涼里(チョンニャンニ)へ越した林業試験場のこと。
金二萬氏(キムイマン)は「木おじいさん」と呼ばれ、「林業試験場に携わって60年」で次のような手記を残している。
「今年(1982年)で林業試験場創立60週年を迎えたが、創立当初から勤続している私(1919-1963勤務1985年85歳で没)は、その間に発展変化した試験場の姿を見るたびに、色々な昔の追憶が頭の中にいっぱい湧いてくる。
1913年に発足した林業試験所は、1919年9月に北阿峴洞から清涼里洪陵に移転してきたが、移転当時の事務室は小屋のように小さな建物2棟で5~6名の職員が勤務していた。
 所長の石戸谷勉(いしどや・つとむ)と主任の浅川巧(あさかわ・たくみ)氏が中心になって多くの試験事業を遂行した。
 浅川巧氏は韓人に対する日本人たちの蔑視が甚だしかったその当時において非常に親韓的な人士であり、韓国人の困難に目を向けてくれたので、日本人としては例外的に忘憂里に葬られ、(墓は)林業試験場によって手入れされている。
 1922年8月23日、林業試験所が朝鮮総督府林業試験場へと改編・昇格した。創設当初の造林分野での主要試験課題は、試植地造林事業、種子発芽試験、樹木園および薬用植物園造成、種子標準品質調査および標本収集等であった。
 8・15以前まで、故鄭台鉉博士をはじめ、中井猛之進、植木秀幹等と金剛山、白頭山、智異山等、全国の山林を数回踏査して樹木その他の山林植物を採集したので、今でも北朝鮮のどの山どの谷間に何の木が育っているのか、頭の中に浮び上がったりする。
 1925年に実施された試植地造林事業は、我が国最初の適地敵樹試験であり、種子産地試験で種子産地別に養苗された苗木を全国388か所の山林に植栽し、活着率、年年成長量、適応性等を20余年にわたって調査したが、8・15と6・25の混乱期に資料が焼失し、貴重な事業が無為に終わってしまった時はとても残念だった」。山林庁林業試験場『林業試験場六十年史』1982:http://blog.livedoor.jp/bagoly/archives/65764413.html より転載

「本府へそれを持つて行つた。朝鮮服
を着て居たので本府の玄関で巡査にとがめられた。一寸いやな気がした」。
朝鮮服は暖かく朝鮮の風土に合う、着やすい服であることを身に感じ、それが自然であった巧にとってこれは本当に嫌な体験であっただろう。このような巡査がとがめる意識は高崎宗司先生の『「妄言」の原形―日本人の朝鮮観』(木犀社)を読んで学びたい。
 
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