浅川兄弟とは 
参考著書:高崎宗司『朝鮮の土となった日本人浅川巧の生涯』   1982(昭和57)年初版・増補3版から今後は定本になる予定
 兄は浅川伯教(あさかわのりたか)といい、1884(明治17)年8月4日生まれ。弟は浅川巧(あさかわたくみ)といい、1891(明治24)年1月15日生まれ(戸籍上)。生誕地は現山梨県北杜市高根町五町田294番地、八ヶ岳山麓の文字通り山紫水明の地。釜無川・塩川のつくった七里岩(しちりいわ)の台地を挟んで南アルプスの山なみを臨み、さらに南に富士山、北に八ヶ岳の霊峰が迫る風光明媚な土地。人はどんな土地で生まれ、どんな成育歴を辿ったかは生きる上で根本的な価値観を育むと思われる。
 長じて二人はキリスト教信者となり、兄伯教は1923(大正2)年、弟巧は翌年日本の植民地であった「朝鮮」に渡った。そこで二人は李朝工芸の美を見出し、今日まで伝えた兄弟として記憶されることになった。
 兄伯教は「朝鮮陶器の神様」(倉橋藤治郎による)「朝鮮古陶磁の神様」(小山富士夫による)とも呼ばれるほどの陶磁器研究をすすめたが、戦後は日本に帰国し、1964(昭和39)年1月14日死去した。
 弟巧は兄を頼って「朝鮮」に渡った。そこで、朝鮮総督府技手として林業に従事し、禿山の多い朝鮮の山に木を植えるため植林を進めた。朝鮮落葉松の幼苗を芽吹かせるため「露天埋蔵法」などを広め成功させた。そういう生活の中で朝鮮人の生活や文化に傾倒し、朝鮮語もいち早く覚え、夜な夜な兄伯教と骨董店を訪ね、李朝工芸品を購入し、その成果を『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』として上梓した。これらは名著として現在の私たちに残されている。特に弟巧と交流した「日本民藝館」創設者柳宗悦は戦前21回も渡鮮し、京城に浅川兄弟と共に「朝鮮民族美術館」を開設した。しかし巧は1936(昭和6)年4月2日40歳で肺炎のため急逝してしまった。多くの朝鮮の人々は巧の棺をかつぎ、朝鮮人の心に残る日本人として現在まで語り継いでいる。柳宗悦にとっても巧は唯一の心の友だった(長男宗理)。柳宗悦は浅川巧を「朝鮮のことを内から分かっていた人」「私の無い人」として自分よりも優っていたと回想している。
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