木喰行道について
木喰行道上人とその弟子木食白道について
 簡単な紹介では江戸後期、生涯を通じて全国を行脚し、信仰の行として1000体以上の仏像を彫刻し、遊行した僧。その本姓は伊藤、木喰行道(ぎようどう)あるいは木喰菩薩とも名乗った。前半生を示す資料は自筆の『四国堂心願鏡』である。この本によると木喰は「丸畑ヶ村(現在の山梨県身延町古関丸畑)」で、1718(享保3)年の出生、14歳で江戸に出て様々な仕事に就いた。失業中の22歳の時に大山石尊(神奈川県伊勢原市)へ行き、子安町の宿で古義真言宗の大徳に出会い出家し、その後所々の住職をした。45歳の時、日本廻国の大願をおこし、常陸の国(茨城県)観海上人の弟子となって木喰戒(木の実や果実を常食とする木喰戒を守る僧の総称)」を継いだ。本来木食は口偏がないのが普通であるが、木喰行道は本人が仏像の背銘に固有名詞として使っている。
 1924(大正3)年正月、柳宗悦は浅川巧に連れられて、浅川兄妹や当時の若者たちに大きな影響を与えていた池田村(甲府西郊外)の小宮山清三宅を一緒に訪ねた。その際、お蔵の階段下に無造作にあった「木喰仏」を見て惚れ込んだ。それを機会に柳宗悦は木喰上人の研究にものめり込んで行く。それを物心両面で支えたのが小宮山清三であった。その研究は『木喰上人之研究』第1~5号と『木喰五行上人略伝』『木喰上人和歌選集』『木喰上人之研究』特別号の8冊にまとめられた。特に『木喰上人木彫仏』の写真集は柳宗悦編で、木喰五行研究会(大正14)年は大判、乙種(未製本)帙付、限定300部甲種背革の豪華本であった。
 木喰行道の足跡は遠く北海道中部から九州南端にまで及ぶ。寺を建て、仏像を刻む伝道一途の生涯を送ったが,彼の造る仏像は「微笑仏」として、形式にとらわれぬ自由なもので、沈滞した江戸の彫刻界にあって、初期の円空仏と並んで彫刻としての純粋さと、ひたむきな信仰を具現したものとして評価されている。93歳で1810(文化7)年6月5日没するまで三十数年間を巡錫(錫杖を持って巡行する意)に終始した。
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