2016年1月2日(土)
2016『浅川巧日記』を読み解く(2)
『浅川巧日記』を読む解く(2)
一月二日
 朝九時に出て貞洞と今村さんへ廻つて柳、水谷川両氏と一緒に南大門駅へ行つた。家兄の帰京を見送つたのだ。其処で赤羽君と一緒になつて太平町から鐘路近傍の古物店、古本屋をのぞき廻つた。買つたものの主なるものは、真鍮食器、風呂敷模様、版木、二倫行実等で特に優秀のものも見当らない。晩飯には国一館で朝鮮料理を食べた。夜は赤羽君の動議で公会堂の活動写真を見た。東京動物園、ボートレースなどは無邪気で子供の喜びさうな無難なものだが下等な趣味のアメリカ辺から来た芝居には閉口した。如何なる点から考へても俗悪極まる劣等の趣味だ。アメリカ人の感心しさうなものだ。半途で退場した。
   西小門祉で皆に別て九時帰宅。
   晴れてゐて風もないが寒い日だつた。


1910(明治43)年、朝鮮王朝は最後には国名を大韓帝国と変えたが、大日本帝国に併合され、それまでの都漢城は京城と改称された。(今はソウル)
兄伯教が東京へ帰るのを見送った駅はその京城市の京城駅名でなく、南大門駅だ。1900(明治33)年に仁川と漢城を結ぶ線路が最初の鉄道会社(京仁鉄道)によって開通。最初は木造の平屋の小さな駅で、名前は京城駅で始まった。1906(明治39)年に京城~釜山の京釜線が開通すると「南大門停車場」と名前が変わり、1900(明治33)年7月8日「南大門(ナムデムン)駅」として開業。1923(大正12)年1月1日に「京城駅」と改称。この日記の年は1922年なので、南大門駅だった。
【参照地図:まだ京城の崇礼門につづく城壁も描かれている。南大門の正式な呼び名は「崇礼門」で南大門は通称。
 兄伯教は1919(大正8)年4月までは小学校の図工の訓導(正式な教諭のこと)であった。しかし、5月にはもともと1912年には入門していた東京の彫刻家新海竹太郎の内弟子になるため、上京した。もともと図工の教員であったが、教員は生活のため、彫刻家が第一希望であった。1914(大正3)年柳宗悦の我孫子の自宅に「李朝染付秋草文面取壺(瓶」を持って行ったのも柳宗悦が持っていたロダンの彫刻(或る小さな影)を見たいがためであった。
 1920(大正9)年<木履の人>が帝展で入選した時10月22日の『京城日報』紙面で妻たか代は「私の宅には只の一冊も児童教員の参考書などはございませんような始末」と話している。一方伯教は10月13日『京城日報』で「朝鮮人と内地人との親善は政治や政略では駄目だ、矢張り彼の芸術我の芸術で有無相通ずるのでなくては駄目だ」と述べている。しかし、伯教は1922(大正11)年4月には3年間の修業を終え朝鮮に戻ってしまった。理由は彫刻界の内紛に嫌気がさしたことや朝鮮でも美術展が開かれるようになったことなどだとの近親者の証言がある。そして陶磁器研究に没頭することに意味を見出したとも思われる。当時1000円もした陶磁器研究の古文書を携えて朝鮮に戻った。
 
 浅川巧は時に日記の中では激しい。見た映画が「下等な趣味のアメリカ辺から来た芝居には閉口した。如何なる点から考へても俗悪極まる劣等の趣味だ」と強烈に書く。
西小門祉は巧の家(阿峴北里)に帰るための京城市内と分岐点と地図を見るとわかる。

 
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