山梨民藝協会ホームページ

柳宗悦の日本民藝館・日本民藝協会の山梨支部

山梨民藝協会のホームページへようこそ。
浅川伯教・巧兄弟や木喰上人、木食白道などについて「研究ノート」で
知られていない資料や情報をお知らせしています。
浅川伯教・巧 研究について


山梨民藝協会の事務所では
戦前の朝鮮関係の本・今の韓国・北朝鮮関係の本を取り揃えています。
山梨県甲府市丸の内2-29-2 ワインズ新富屋3F 「ぱらむ」
常時はおりませんので、連絡をいただいて開館いたします。連絡は山梨民藝協会へお問い合わせください。
 (090・8341・0858)
2018 ご案内

2018年度 日本民藝協会全国大会 鹿児島
標語「無心に創る 鹿児島と民藝のえにし」
ー開催のご案内ー

会期:第157回 鹿児島会場 校長・川野恭和 

今年の日本民藝夏期学校鹿児島会場は、知的障害者支援施設「しょうぶ学園」を会場として開催します。しょうぶ学園には、布、木、土、和紙の工房があり、無垢で感性あふれる園生の創作が生まれています。
柳宗悦「工人銘」の中に「無に帰らむと求めよ」とあります。我々が忘れている大切な何かがここにはあります。その空気の中で、無心に創ることの意味を感じながら、民藝を考えてみてはいかがでしょうか。
今年の夏期学校は明治維新150年の関連企画とNHK大河ドラマ「西郷どん」で賑わっています。



2017 ご案内

山梨民藝協会 定例 2017
柳宗悦の「用の美」縄文土器との相関について
ー開催のご案内ー

期日:平成29年(2017)6月24日(土)
会場:甲府 駅前通り ワインズ新富屋ビル三階 ぱらむ
主催:山梨民藝協会
申し込み期限:当日お越しください
問い合わせは山梨民藝協会へメールか電話でどうぞ
メール:yamamingei@yahoo.co.jp
ぱらむの連絡は(090-8341-0858)まで
山梨民藝協会の事務所「ぱらむ」とは
韓国語で「風」の意味-風は空気の動きでおこります。動かないと何も始まりません。好きなことには行動をおこしましょう。そんな方たちの集まりやすい場所提供です。甲府駅から歩いて5分ワイン専門店[ワインズ新富屋]の三階です。おしゃべりに寄っていく方、本を見ていく方などいらっしゃいます。お気軽にお出かけください。
 高崎宗司先生の書斎にあった本など朝鮮・北朝鮮・韓国関係の本がそろっています。浅川伯教・巧兄弟が出版した当時の初版本、浅川兄弟に関わりのあった方々の本など関係者の本が揃っています。
2018年9月
山梨民藝協会お知らせ・研究ノート・『浅川巧日記』を読み解く。しばらくお休みしておりましたが、再開します。


2018年9月4日(火)
『木喰上人之研究』柳宗悦編輯 木喰五行研究会発行の第三号に浅川伯教が書いた文が載っている。結構、面白く興味深い文なので、著作権50年が経っているから、全文を載せてみる。『木喰上人の研究』
(原文は現代仮名使いに直している)
    
    木喰さんに就いて二三           浅  川  伯  教

 大正十年の夏の事であつた。弟の妻が県病院に入院中、私は久しぶりで甲府へ帰った。病院に行く途中百石町に山本節さんを訪ねた。戸を明けると、二つの木彫が直ぐ眼に入つた。主人は、どうです この彫刻はと云ひ乍ら、例の童顔に笑みを浮べて、白木の荒刻りの佛さんの頭を撫でた。私は変な味の素性のよい面白いものだと思うて、明るい気持ちに成つて、主人の説明を傾聴した。
 その後、妹は県病院で遂に逝つた。小野先生(甲府教会牧師)に頼んで教会で出張りの葬式を済した。帰りに、櫻町で古屋骨董店の前を通ると、硝子越しの暗い部屋の中に、白木の荒彫の佛さんが、ずらりと並んで居つた。はゝああ、あれだな木喰上人の彫刻は、山本さんの處で見たのと同作だ。と一人で心に思うたが、時が時であったからそのまゝ過ぎた。そして間もなく東京へ帰つた。 
 大正十三年の正月、柳君の處から葉書を貰った。それには池田の小宮山君の處で木喰上人と云う人の彫刻を見た。賓に驚くべきものだ。とあつた。
 その時三年前の記憶がはつきり私の頭に浮んだ。後で聞くと直ぐ其場で書かれた葉書との事だ。私は今小宮山君の所蔵の一作を通して他に何等の背景も無き上人の全生活に就てのアウトラインを正しく直感した、柳君の鑑識に敬意をはらわざるを得ぬ。
 昨年の夏七月京都に旅行して、柳君の處で長く厄介に成つた。其時には上人の作の一躰の地蔵さんが、吉田山麓の邸に安置されて居つた。主人の時々殷謹な態度で線香を立てたり、又話しの切れ目に一人静にこつそりと地蔵さんに心を寄せる様を自分は感得した。
 この部屋には支那・朝鮮・日本の美術品が處も狭い程並べてある。その中で、この地蔵さんは、この部屋に一種の空気を作つて居る。
 それ計りでなくこの家に木喰さんの空気が充ちて居る事を感じた。
 丸畑から寫して来た、自叙伝や、和歌の研究に、主人は熱中して、奥さんが辞書を抱いて来て引張つたり、自分が甲州の方言の説明を試みたりした。
奈良や京都は彫刻物の檜舞台で国宝がごろごろして居る。其中に、甲州の丸畑と云へば甲州の内でも知らぬ人の多い處から、一つの木彫品の地蔵さんが、菰に入り込んで仲間入りしたのである。
 毎日二人で京都の古い寺や骨董をのぞいて色々の美術品を見て歩いて帰って、この木喰さんの地蔵さんを見る。全く別な美に打たれる。
 現世に於いて平凡と見られて居る、総べての人の所有する美しさと佛性とを、これ程射面に現わした彫刻は他に無い。
 眞の彫刻と偶像とは全く別のものである。聖書や経文が貴い語である様に、真の彫刻も聖者の語である。その心を美しき形に象徴したものが彫刻で、美しき語に象徴したものが聖書や芸や経文である。二つ乍ら貴い手段である事には相違は無い。地蔵さんは、常に笑い乍ら何物かを物語る。その美しさを理解する事によつて凡ベての人の所有する忘れられたる美しさが理解出来る。人に対して腹を立てる事が出来なくなり、総ベての人に対して親しみ感ずる。木喰さんの彫刻は腹の虫のまじないに感じるとも云える。あの彫刻を前にして立腹する様な極道はまだ日本人には無い。
 柳君の處に、生きた小さな、木喰さんが居る。それは今年、尋常二年生、今迄、モウチャンと云われた、二番目の坊ちゃんだ。その頃家の人だちは、皆モウチャンの事を、木喰さんゝと云って居つた。それは極めて木喰さんに似て居つた。圓い顔に眼がギョロッとして、頬から顎に掛けて膨らんだ豊かな線、額が少しおでこで、鼻が小さい方で、唇が厚手に締つて鼻の側に小皺を作って笑う時は、木喰さんの地蔵さんそつくりだ。
 この小さい木喰さんは時々兄さんと喧嘩をする、今泣いたかと思うと、けろつと微笑して居る。兄さんが木喰さんと呼ぶと、「えぇ」と云うて得意の顔をする。
 朝起ると兄さんと二人で父さんの處へ来て、「ごきげんよう」と云うて、丸い頭をごろっと下げる。大体の事件は平気の微笑で済す。おかあさんは、時々この木喰さんは不平家ですと云われるが、不平を申出る時でも、のん気な顔をして居る。父さんに、叱られてこそゝ姿を隠したと思うと、いつの間にか、そうと戸をあけて一寸のぞく。木喰さんそつくりの表情。
 この家の二階から樫の大木の幹を越して、東山が見える。その峯のラインの終る處に清水の塔が見え、離れて東寺の塔も見える。本願寺の大きな屋根が見え、京都の町は一目に見下される。木喰さんの京都入りは田舎者の江戸見物と云う格だが、平気でにこにこして御座る、一向引け目を取らぬ。
 作者にとっては製作は一個の自叙傳である。この一つの塊りが、彼れの全生活を物語る。上人の作は舶来ものでも無ければ、天から降つたのでも無い、日本の土から生れたものである。
無論立派の殿堂に飾らるゝより炉辺に胡座して渋茶を味わう人だちと共に燻りつゝ談ずる側に、属する人である。
 今年の四月陶器行脚に東京の市を訪うた。丁度木喰上人の展覧會に出合わした。久しぶりで甲州の色々の人に遇つた。
 どうも甲州から出て来る人は木喰さんに似て居る。大森さんと雨宮さんは、其内でも随分似て居ると思うた。
 五十躰以上の上人の作がずらりと並べられた様は偉観であつた。其内でも上人の自刻像、ことに老年の方が、非常に好きであつた。晩年のセザンヌの自畫像を思わせる。永平寺の坊さん道元禪帥も實によい。あのむき出した眼光はこの世のあらゆる眞實を観破した相では無いか。禪の塊りの様に強く美しい。総べての禪僧の叡知の夢を弦に宿して居る。
 三時代を代表した三個の自刻像は、上人の精神生活の進歩即ち瞑想・法悦・大悟の三相を明瞭に思わせる。一人明月を仰いで法悦に入つて居る、那迦犀那尊者の横向きの極めて明るい顔は、上人自分の、秋月獨居の夜を想わざるを得ない。現世のごた〆を背にして、一人天空の何物かと語つた幾夜の記憶が彼れにあの構圖を想起せしめた事と思う。ことに多くの和歌の中にあの気持ちのものが少くない。
 強い光背の効果はジョットの畫を思わせる。それに囲まれた圓い頭の地蔵さんは、實に愛すべき圓満の姿ではないか、眺めて居ると自分が地蔵さんを愛して居るのか、地蔵さんがこちらを愛して居るのか、分らなく成る。愛は愛を招き、愛は愛を生む、と云う様の事が直覚的に心を突く。
 教安寺の十一面観音様は、實に打ち解けた姿で徳利を持つて御座る。心もち横に向けた顔は、気持ちのよい田舎の御婆さんそのまま。その上にある細い多くの顔をよく見ると、腕白な田舎の鼻汁を横に撫でて、きょろゝやって居る子供の群集そのまゝではないか。上人はこう云う民集の中に佛性を見た。
2018年9月2日(日)
2018(平成三十)年4月21日に浅川伯教の次女上杉美恵子さんが100歳で亡くなった。
 上杉美恵子さんは当時日本の植民地であった朝鮮の京城(現ソウル)に住んでいた浅川伯教とたか代の二女として1917(大正6)年に生まれた。そして、彼女は一世紀生きた。浅川巧の一人娘園絵は同じ年で、60歳で亡くなったが、生きておられると100歳なんだと認識した。美恵子さんは巧が亡くなった日も巧宅に遊びに来ていて、巧の死を目撃した人であった。浅川兄弟に直接つながる方は彼女が最後で皆天に召された。(勿論、その血縁の方々はご健在)
 
 上杉美恵子さんが昭和8年の結婚の際、そのことを祝して安倍能成が書いた「細漣」さいれん(『自然・人間・書物』)と言う随筆がある。
 安倍能成には幾冊もの随筆の本が出版されている。『静夜集』『草野集』『槿域抄』『自然・人間・書物』『青丘雑記』『涓涓集』等々は所持しているが、それらの随筆書のなかに必ず浅川兄弟のことが書いてあるのだ。『自然・人間・書物』の中にある「細蓮」を下記に転載した。文中 X 氏は浅川伯教のこと。

安倍 能成(あべ よししげ、1883年(明治16年)12月23日[1] - 1966年(昭和41年)6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 (ウィキペデイアより)

細漣  安倍能成(現代仮名使いに直し、高名な人の氏名を明記) 
 朝鮮陶器の第一の鑑賞家であり、又白分白身も傑れた陶器作家であるⅩ氏とは、京城に来てから間もなく知合になり、その一家一族の人々とも親しくなつた。家族を離れた京城に於ける私の一人生活が、このⅩ一家及びその周囲の人達によつて賑やかに又和やかにされて居ることは、私の平生から感謝して居る所である。私とⅩ君とは十数年の交によつてだんだん懇意になり、互の内輪事をも話し合う程度に達して居るが、Ⅹ君が名人肌の人物であつて、気分が熱さぬと動かぬ性質である為に、家族が迷惑することもないではなく、殊に陶器の製作と同じく娘の結婚を気の向くまで放任して置いては困る、とも思い.例の無遠慮から、私は時々自分の趣味や気分に淫して娘達の婚期を誤ることのないように、というおせつかいをⅩ君に向かって吐露した。
 私はそういうことを言いながら、Ⅹ君が娘たちのことを心の中では深く考へて居ることも、芸術家気質の中にも決して人間的常識を欠く人でないことも承知しては居たのである。幸にして長女は昨年良縁を得、次女が叉この頃になつて好配と相逢うに至った。その夫になる人は、或る名高い法律学者Y氏(上杉慎吉)の子であるが、一、二年前から京城に来て私とも顔見知りの間であり、一見純粋を思わせる青年であつた。そうしてこの度の縁談にも私は多少の交渉があつて、その話の進捗に封するいくらかの功績をさへ自任して居る間柄である。私はこの冬東京に公用があつて早く帰ることになり、二人の結婚式に列し得ぬことを遺憾として居たが、出発の前数日に芽出たく結納のとりかわしを了したというので、その夜Ⅹ君一家から夕飯の招待を受けた。Ⅹ君の一家と親族と、工芸を中心としてⅩ君と親類附合をして居る人々、それからY君(戦前著名な上杉愼吉の次男上杉重二郎で労働運動史、北海道大学教授)の在京城のたつた一人の縁家なるZ氏夫婦や、この話に関係のあるY君の友人W君夫婦等、二十数人の会合であつた。   (中略)
 私は学校の帰りだつたが、書物の外に一つの新聞包みを携へて来た。それは李朝初期の茶碗であつて、「かた手」と称せられる種類のものである。紬薬は大体白つぽい中に少し紫色を帯びた気持ちのいい感じであり、縁辺が真円でなく少しゆがんで居るのが、横から見ると気持のいい曲線の重なりになる。高台は平凡だが、薬のかからぬ赤土が今焼いたような新鮮な色を呈して居る。中の方の底部の平底的な形が私に気に入らぬのと、高台に少し凹凸があつて安定しないのとが欠点であつた。Ⅹ君は陶器の鑑賞をも製作と共に一つの修行と考へて居る人である。私も少し李朝のガラクタを集めたことはあるが、この方の修行も結局「玩物喪志」に至らねば徹底しないと思って、近頃はやめてしまった。ただ貧しくて愚かな、そうしてあまり下品ではない朴という男が、学校の部屋に色々下らぬものを持つて来るので、一つには勉強の間のうさはらしにそれを見ることもあるし、十度に一度位は買つてやることもある。
 この茶碗はそういう中ではいい方で、私は東京から迭らせた抹茶をこの茶碗で立てて一日に一回は部屋で服することにして居たのである。その夜これを学校から持つて来たのは、Ⅹ君にその高台を安定にするエ夫をしてもらう為であつた。Ⅹ君はこの茶碗の趣をほめ、一体茶碗はあなたのように机の上に置くのでなく、畳の上に置いて飲むのが本当だから
“このままでいいでしょう”という話であつた。そこで結局茶碗はそのままにして、茶碗のきもののおしふくは、京へ行つて家元から習つて来たⅩ君の義妹U子さん(巧の妻の咲)に誂えてもらうことになり、箱はT君が引受けて作らせてくれることになった。
 誰からとなく銘は何とつけるという話が出た。Ⅹ君に相談すると「十二月二十三日だね」
と答へた。十二月二十三日は当夜の婚約者が式を挙げる予定の日である。叉私の誕生日であり、私達夫婦の結婚した日である。その上恐れ多いが今の皇太子殿下(平成天皇)がお生れ遊ばして、国民的歓喜の沸き返つた日である。私は二十三日ときくと、直ぐふとその時出来た。「サイレン、サイレン……」という唱歌を思い出した。さうしてこの茶碗は「細漣」と銘しょうと思つた。
 若夫婦の結納の日に逢着したその茶碗の縁から、彼等の結婚日と.皇太子様と日を同じうする私の誕生日、合せて私達の結婚日とを記念し得ると思つたのと、高台のでこぼこが少し茶碗をゆらゆらさせるのが、細い漣に小舟が小さくゆれるのと似て居るという故事つけもあつた。
 若夫婦は予定の如く二十三日に結婚した。私達もすき焼を食つてその日を祝った。私は冬休果てて京城(今のソウル)に帰った時、新しい着物を着、新しい家に住んだその茶碗を見て、その表札に「細漣」と署してやることを、一つの小さな楽しみとして居る。
             (昭和十四年十二月二十七日)

 文中のX君が浅川伯教であり、伯教の性格や安倍がどのように浅川家と親しんでいたかがわかる。
 亡くなった上杉美恵子さんの結婚式のとき、現平成の明仁天皇が誕生し、(1933(昭和8)年12月23日)サイレンがなった。「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋・作曲中山晋平)という奉祝歌がつくられ唱われた。その時のことを安倍能成は書いている。

  日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
  サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
  天皇陛下喜び みんなみんなかしわ手
  うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた

 皇太子(平成天皇)誕生への祝意強制の社会的同調圧力が、自然のごとく行われた時代であった。それは植民地朝鮮でも国内と一緒であった。
 星の歌 
 とうとう、今年も8月15日を迎えた。私にとって、8月15日は全面降伏であの戦争ががやっと終わったという歴史上、記念すべき日であることが一番。それ以上に個人的には『浅川巧日記』の8月15日に巧の詩が載っている日ということも大きい。
 下記に載せたこの「星の歌」と称する記述が書かれた日なのだ。
 伯教・巧兄弟はキリスト者であった。キリスト教を理解するうえで巧日記のこの記述ほどその精神を表現し、詩のように述べた文を他に知らない。


 大空は隅から隅まで星を鏤めた象眼になって居る。
 大空の奥行きは人間に想像を許されて居ない気がする。
 星には大小光の色や強弱があって同じ様のは殆んどない。
 あの各々に自転や公転の運動があるとどうしたら思へるだらうと
 疑ひ度い程静かだ。
 彼等の運動は自由だ。

 真の自由は進むべき当然の道、神の指示する道を信じて歩むことだ。
  彼等は自由の運動をして居て全躰の均斉を失わない。
 逆に云ふと全躰の均斉を失はない各個の運動は真の自由の運動であると
 云ふことになる。 
 寧ろ各個の運動によって全体の均斉は安全に保たれて居るのだ。
 あの宇宙にふらふらして居る様の星が人間の想像し得る一番確実な
 安泰の状態であると云ふことを知ってゐるか。
 自分達が地球上に如何に大建築を立てゝも、大森林を造っても、
 墓場を立派にしても、土を掘って宝をかくしても、
 大盤石にしがみついても、
 その確かさはあの星の一つの糞皮に起った出来事にすぎない。

 人類よ、星の様に自由の道について進め。そして全躰を安泰にしろ。
 各自許された力を出し切って運動しろ。
 引力の手を汝の隣に延べて握手しろ。
 人の子の霊の天躰はそこに出来て星の様に輝くだらう。

 草叢の土際からコウロギの一族がを歌ってゐる

 私たちは自分の意志で自由に生きていると思っている。しかし、そのように見えても実際は宇宙が均衡を保って全宇宙に存在しているように、自由のように見えても宇宙の中ではそれぞれ均衡を保っている一人にすぎない。だから、自由に生きることで人間社会に於いて均衡を保っているのだ。各おのおのが自由に自分の力を出し切って生きろ。そうすることによって星が自分で輝くように人も輝く、と。巧は8月15日の日記に書いているのだ。最後の一行を見ると巧は全く詩人だ。
2016年7月29日(金)
 パワースポット

 月日は確実に進む。しばらくご無沙汰しておりまして、問い合わせも頂き、ご心配をおかけいたしました。色々ありました。次から次へ心を乱すことが起こるものです。全て私的なことですが、私は元気です。
 
 先日、パワースポットの様な「さわらの森」に行ってきた。サワラ(椹、学名:Chamaecyparis pisifera)は、ヒノキ科ヒノキ属の1種。針葉樹。約10ヘクタールの広さを持ち、何十本ものサワラの巨木が密集している。
 さわらは多数の支幹に分かれ、くねくねと曲がった幹。その上にまっすぐな孫のような樹形が立ち、数百年を生き切っている。そんな妖しい樹形を浮かび立たせる地表の苔もすごい。まるでサワラ版「幻想の森」。一歩足を踏み入れると、異次元世界の森に迷い込んだようなすばらしい森だ。
 生きる力と永遠とは何かを感じさせる。今の私たちが死んでもこの木は生きているだろうことを疑いなく思える樹だ。それも道路から入ってすぐの妖幻な世界。
 先日、韓国からの客とここにお弁当を持って行き食べた。暑い盆地とは別世界だ。おにぎりも玉子焼きもおかずもスルスルと食べれた。地面はふわふわ。緑の苔。さわらの横に立つと、人の何と小さいことか。今の私たちの悩みや憂いの何と小さいことか。
 さわらはどうやら水に強いようだ。冷たい水の流れの横に立っている。流れが樹の皮を洗っている。腐らないのか。私たち人間の一日、一生もこの樹にはかなわないけれど、この短い一日をどう過ごすかの自由度は動物である人間には与えられている。
 昔から「人はどう生きるか」の命題は語られているが、この数か月色々なことに遭遇し、最近ほど実感することはない。一日一日を本当に慈しんで生きていきたい。
『浅川巧日記』を読み解く
一月十四日
午前中事務所で仕事をした。
午頃から長谷川町の日本基督教会へ行った。柳、赤羽両兄とも来て居て会場の準備も万端出来てゐた。柳さんの「プレークの絵画」と題する講演は二時頃から一時間半ばかりあつた。背思ひ思ひに画を見て帰つて行つた。画はブレークの画の複製版画二十余点で何れも随分いゝものだつた。来た人は五十人ばかり。夜は柳、金沢の諸兄を誘つて赤羽君も一緒にソルランタン〔牛肉、脛骨などを煮込んだスープ〕を食べに行つた。ソルランタンは牛の頭や内臓のスープを飯にかけたものだ。安価で滋養価値の多いよき食物だと思ふ。それから柳さんと.二人町を歩いて貞洞で別れて兄の家へ寄つた。母と嫂を対手に十二時頃まで戯談を言つて嫂の里へ送る牛肉の荷を作つてそれを発送するために預つて持つて帰つた。

 
 あんなに準備した「プレークの絵画」と題する講演会は2時~3時半まで。ブレークの複製画は20余点。来場者は50人余。ブレークも知らない大半の朝鮮人、在住日本人に一生懸命知らせたい。良いものは知らせたいという思いが強い。この時、柳宗悦は33歳。巧は31歳、赤羽王郎は1886年4月生れで36歳独身。
 嫂のたか代の実家は現山梨県韮崎市穂坂町三沢で家督を継いだ弟の善衛(よしもり)当てで、 山梨の田舎ではその頃、牛肉など手に入りにくい。きっと喜ばれたであろう。

一月十五日
 托された荷は春植に頼んで新村駅から送り出して貰つた。第一回にした版画展覧会の画を整理した。朝から細い雪が十一時頃まで降つた。
 会は昨日よりよかつた。柳さんも興奮して詩を読んでゐる様だつた。ブレークの詩は美しく鋭い。人は六十余人集つた。午後森永君の家に行つて彼の父の蒐集した朝鮮の器物を見た。特にいゝものもないが僕等の持たないものが二、三点あった。夜また柳さんに会つて晩くまで話した。
 会が済んで少し気ぬけがした。熱心な青年に会はなかつたことと朝鮮の友の少なかつたことは淋しい。京城の市民達が藝術に対する欲望のまだ少ない証拠だ。


「ブレークの絵画」の講演会は2日に渡って有ったことがわかる。今日のは絵画ではなく、ブレークの詩であろうか。

 ブレークとその詩・絵画を調べてみた。 http://blake.hix05.com/index.htmlより
 ブレークとは、ウィリアム・ブレイク William Blake(1757-1827) は、イギリスロマンティシズムの初期を代表する詩人にして画家である。彼の業績は詩と絵画を別々にしては考えられない。その詩の殆どは、挿絵を伴った絵本の形で出版されたし、また、詩も絵画もブレイクという芸術家が抱いていた世界観を、それぞれの形で表現したものといえるからだ。
ウィリアム・ブレイクの持っている特質は、深い宗教的感情と、幻想的な資質である。
イギリスロマンティシズムを代表する詩人にして画家である。イギリスのロマンティシズムは19世紀前半に起こった芸術の潮流であり、詩と絵画を通じてイギリスの歴史に残る偉大な作家を生み出した。ブレイクはその中でももっとも偉大な芸術家とされ、今日においても、詩と絵画を通じて高い評価を受けている。
ブレイクは正規の学校教育を受けず、主に母親によって教育された。用いられた教材は主に聖書だったという。だから、聖書を題材にしたものが主要である。
ウィリアム・ブレイクの第一詩集「無垢の歌」は、実質的には「羊飼い」の歌から始まる。羊飼いは羊飼いの仕事が楽しいといって、自分の仕事に満足している。なぜなら羊とともに暮らすのは素敵なことだし、羊も自分を頼ってくれる。自分も羊も神様に感謝しなければならない。
羊飼い The Shepherd
 羊飼いの仕事は楽しい仕事
  朝から夕まで歩きまわって
  一日中羊を追いかける
  感謝の言葉をささやきながら

  子羊が可愛い声をあげると
  母羊がやさしく答えてあげる
  羊飼のおかげで羊たちは平和
  羊飼がいつもそばにいるから
ウィリアム・ブレイクの第一詩集「無垢の歌」は、実質的には「羊飼い」の歌から始まる。羊飼いは羊飼いの仕事が楽しいといって、自分の仕事に満足している。なぜなら羊とともに暮らすのは素敵なことだし、羊も自分を頼ってくれる。自分も羊も神様に感謝しなければならない。
羊のほうも、羊飼いがいるおかげで、狼に襲われる心配もなく、のんびりと草を食べていられる。やはり神様に感謝しなければならない。
なにやら人間の親子、母と子の幸せな関係を物語っているようだ。無垢な子どもと、子どもを導く母親の愛。この詩はそんな愛と喜びのテーマを、うららかに歌ったものだ。

生まれた喜び Infant Joy
 “僕にはまだ名前がない
  生まれてまだ二日なんだ“
  どんな名前がいいかしら
  “ぼくはとっても幸せだから
  喜びの名がいいな“
  いつまでも喜びが続きますように!

  可愛い喜び
   愛らしい喜びはまだ二日
  あなたを喜びと呼びましょう
  あなたは微笑み
  私は歌う
  いつまでも喜びがつづきますように!

『浅川巧日記』を読む解く(13)
一月十三日
 午前中事務所で播種造林の試験の仕様書を書いて午後本府へそれを持つて行つた。朝鮮服を着て居たので本府の玄関で巡査にとがめられた。一寸いやな気がした。夕方赤羽君が来たので二人で晩飯をした。貰つた鶏や豚の肉で薬酒を飲んだ。夜はまた森永、赤羽諸兄夜は又森永、赤羽諸兄と柳さん処に会して展覧会の画の準備をした。赤羽君は僕の家に来て寝た。


午前中事務所で」の事務所は清涼里(チョンニャンニ)へ越した林業試験場のこと。
金二萬氏(キムイマン)は「木おじいさん」と呼ばれ、「林業試験場に携わって60年」で次のような手記を残している。
「今年(1982年)で林業試験場創立60週年を迎えたが、創立当初から勤続している私(1919-1963勤務1985年85歳で没)は、その間に発展変化した試験場の姿を見るたびに、色々な昔の追憶が頭の中にいっぱい湧いてくる。
1913年に発足した林業試験所は、1919年9月に北阿峴洞から清涼里洪陵に移転してきたが、移転当時の事務室は小屋のように小さな建物2棟で5~6名の職員が勤務していた。
 所長の石戸谷勉(いしどや・つとむ)と主任の浅川巧(あさかわ・たくみ)氏が中心になって多くの試験事業を遂行した。
 浅川巧氏は韓人に対する日本人たちの蔑視が甚だしかったその当時において非常に親韓的な人士であり、韓国人の困難に目を向けてくれたので、日本人としては例外的に忘憂里に葬られ、(墓は)林業試験場によって手入れされている。
 1922年8月23日、林業試験所が朝鮮総督府林業試験場へと改編・昇格した。創設当初の造林分野での主要試験課題は、試植地造林事業、種子発芽試験、樹木園および薬用植物園造成、種子標準品質調査および標本収集等であった。
 8・15以前まで、故鄭台鉉博士をはじめ、中井猛之進、植木秀幹等と金剛山、白頭山、智異山等、全国の山林を数回踏査して樹木その他の山林植物を採集したので、今でも北朝鮮のどの山どの谷間に何の木が育っているのか、頭の中に浮び上がったりする。
 1925年に実施された試植地造林事業は、我が国最初の適地敵樹試験であり、種子産地試験で種子産地別に養苗された苗木を全国388か所の山林に植栽し、活着率、年年成長量、適応性等を20余年にわたって調査したが、8・15と6・25の混乱期に資料が焼失し、貴重な事業が無為に終わってしまった時はとても残念だった」。山林庁林業試験場『林業試験場六十年史』1982:http://blog.livedoor.jp/bagoly/archives/65764413.html より転載

「本府へそれを持つて行つた。朝鮮服
を着て居たので本府の玄関で巡査にとがめられた。一寸いやな気がした」。
朝鮮服は暖かく朝鮮の風土に合う、着やすい服であることを身に感じ、それが自然であった巧にとってこれは本当に嫌な体験であっただろう。このような巡査がとがめる意識は高崎宗司先生の『「妄言」の原形―日本人の朝鮮観』(木犀社)を読んで学びたい。
2016『浅川巧日記』を読み解く12
一月十二日  
 午前中部屋のかたづけと事務所で仕事をした。午近い頃から柳兄が来たので二人で美術館の物品の整〔理〕をして「チゲ〔荷担ぎ〕」を傭つて送り出した。僕が此の家を立ちのかなければならんために嘉納家の一室に預けるのだ。美術館の計画が具体的になつてから満一年だが、その間にぼつぼつ持ち込んだものが実に二十「チゲ」と荷車一台あつた。僕の部屋も荷を出したらすきずきして淋しくなつた。僕の四~五年間の蒐集品も美術館に加へたので何となく淋しさと身軽になつた愉快さを感じた。淋しさを自ら慰めるためには使用し馴れたり又特に好きな数点を預かつて身辺に置く様にした。柳さんと嘉納さんから借りた部屋に物を納めた。金君も手伝つて呉れた。晩飯は今村さんで仕度して呉れて粟飯の御馳走になつた。夜は赤羽、森永、挟間君諸兄と柳さん処で「ブレーク」の詩抜粋抜の謄写印刷をした。一時すぎまでかゝつた。寒い夜の雪道を山越しに帰つて寝た時は二時すぎだつた。

 「朝鮮民族美術館」に展示する作品の整理と保管のことが出ている。巧の勤務先の山林研究場が京城府外清涼里に移ったので、僕が此の家を立ちのかなければならんために巧も勤務先の清涼里に引っ越すことを決めていることがわかる。
 嘉納家は柳宗悦の母の弟、嘉納治五郎の関係のところだろう。柳宗悦の自宅も結婚からすぐ千葉の我孫子に移ったのも柳宗悦の姉直枝子の別荘で、そこも、母勝子の弟嘉納治五郎の我孫子の地所の隣で、ひと山買って直枝子に財産分けしておいたもの。財産家の嘉納家は朝鮮にも家を持っていたか。
 巧は僕の四~五年間の蒐集品も美術館に加へたので何となく淋しさと身軽になつた愉快さを感じた。淋しさを自ら慰めるためには使用し馴れたり又特に好きな数点を預かって身辺に置く様にした。と自分が薄給の中、買って集めた品物をいかに自分私する考えのないかがわかる。特に好きな数点を「預かって」と言う言葉で日記に書いている。未練も欲もない。ここが巧らしさと言うのだろうか。
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