2018年9月2日(日)
細漣
2018(平成三十)年4月21日に浅川伯教の次女上杉美恵子さんが100歳で亡くなった。
上杉美恵子さんは当時日本の植民地であった朝鮮の京城(現ソウル)に住んでいた浅川伯教とたか代の二女として1917(大正6)年に生まれた。そして、彼女は一世紀生きた。浅川巧の一人娘園絵は同じ年で、60歳で亡くなったが、生きておられると100歳なんだと認識した。美恵子さんは巧が亡くなった日も巧宅に遊びに来ていて、巧の死を目撃した人であった。浅川兄弟に直接つながる方は彼女が最後で皆天に召された。(勿論、その血縁の方々はご健在)
上杉美恵子さんが昭和8年の結婚の際、そのことを祝して安倍能成が書いた「細漣」さいれん(『自然・人間・書物』)と言う随筆がある。
安倍能成には幾冊もの随筆の本が出版されている。『静夜集』『草野集』『槿域抄』『自然・人間・書物』『青丘雑記』『涓涓集』等々は所持しているが、それらの随筆書のなかに必ず浅川兄弟のことが書いてあるのだ。『自然・人間・書物』の中にある「細蓮」を下記に転載した。文中 X 氏は浅川伯教のこと。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年(明治16年)12月23日[1] - 1966年(昭和41年)6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 (ウィキペデイアより)
細漣 安倍能成(現代仮名使いに直し、高名な人の氏名を明記)
朝鮮陶器の第一の鑑賞家であり、又白分白身も傑れた陶器作家であるⅩ氏とは、京城に来てから間もなく知合になり、その一家一族の人々とも親しくなつた。家族を離れた京城に於ける私の一人生活が、このⅩ一家及びその周囲の人達によつて賑やかに又和やかにされて居ることは、私の平生から感謝して居る所である。私とⅩ君とは十数年の交によつてだんだん懇意になり、互の内輪事をも話し合う程度に達して居るが、Ⅹ君が名人肌の人物であつて、気分が熱さぬと動かぬ性質である為に、家族が迷惑することもないではなく、殊に陶器の製作と同じく娘の結婚を気の向くまで放任して置いては困る、とも思い.例の無遠慮から、私は時々自分の趣味や気分に淫して娘達の婚期を誤ることのないように、というおせつかいをⅩ君に向かって吐露した。
私はそういうことを言いながら、Ⅹ君が娘たちのことを心の中では深く考へて居ることも、芸術家気質の中にも決して人間的常識を欠く人でないことも承知しては居たのである。幸にして長女は昨年良縁を得、次女が叉この頃になつて好配と相逢うに至った。その夫になる人は、或る名高い法律学者Y氏(上杉慎吉)の子であるが、一、二年前から京城に来て私とも顔見知りの間であり、一見純粋を思わせる青年であつた。そうしてこの度の縁談にも私は多少の交渉があつて、その話の進捗に封するいくらかの功績をさへ自任して居る間柄である。私はこの冬東京に公用があつて早く帰ることになり、二人の結婚式に列し得ぬことを遺憾として居たが、出発の前数日に芽出たく結納のとりかわしを了したというので、その夜Ⅹ君一家から夕飯の招待を受けた。Ⅹ君の一家と親族と、工芸を中心としてⅩ君と親類附合をして居る人々、それからY君(戦前著名な上杉愼吉の次男上杉重二郎で労働運動史、北海道大学教授)の在京城のたつた一人の縁家なるZ氏夫婦や、この話に関係のあるY君の友人W君夫婦等、二十数人の会合であつた。 (中略)
私は学校の帰りだつたが、書物の外に一つの新聞包みを携へて来た。それは李朝初期の茶碗であつて、「かた手」と称せられる種類のものである。紬薬は大体白つぽい中に少し紫色を帯びた気持ちのいい感じであり、縁辺が真円でなく少しゆがんで居るのが、横から見ると気持のいい曲線の重なりになる。高台は平凡だが、薬のかからぬ赤土が今焼いたような新鮮な色を呈して居る。中の方の底部の平底的な形が私に気に入らぬのと、高台に少し凹凸があつて安定しないのとが欠点であつた。Ⅹ君は陶器の鑑賞をも製作と共に一つの修行と考へて居る人である。私も少し李朝のガラクタを集めたことはあるが、この方の修行も結局「玩物喪志」に至らねば徹底しないと思って、近頃はやめてしまった。ただ貧しくて愚かな、そうしてあまり下品ではない朴という男が、学校の部屋に色々下らぬものを持つて来るので、一つには勉強の間のうさはらしにそれを見ることもあるし、十度に一度位は買つてやることもある。
この茶碗はそういう中ではいい方で、私は東京から迭らせた抹茶をこの茶碗で立てて一日に一回は部屋で服することにして居たのである。その夜これを学校から持つて来たのは、Ⅹ君にその高台を安定にするエ夫をしてもらう為であつた。Ⅹ君はこの茶碗の趣をほめ、一体茶碗はあなたのように机の上に置くのでなく、畳の上に置いて飲むのが本当だから
“このままでいいでしょう”という話であつた。そこで結局茶碗はそのままにして、茶碗のきもののおしふくは、京へ行つて家元から習つて来たⅩ君の義妹U子さん(巧の妻の咲)に誂えてもらうことになり、箱はT君が引受けて作らせてくれることになった。
誰からとなく銘は何とつけるという話が出た。Ⅹ君に相談すると「十二月二十三日だね」
と答へた。十二月二十三日は当夜の婚約者が式を挙げる予定の日である。叉私の誕生日であり、私達夫婦の結婚した日である。その上恐れ多いが今の皇太子殿下(平成天皇)がお生れ遊ばして、国民的歓喜の沸き返つた日である。私は二十三日ときくと、直ぐふとその時出来た。「サイレン、サイレン……」という唱歌を思い出した。さうしてこの茶碗は「細漣」と銘しょうと思つた。
若夫婦の結納の日に逢着したその茶碗の縁から、彼等の結婚日と.皇太子様と日を同じうする私の誕生日、合せて私達の結婚日とを記念し得ると思つたのと、高台のでこぼこが少し茶碗をゆらゆらさせるのが、細い漣に小舟が小さくゆれるのと似て居るという故事つけもあつた。
若夫婦は予定の如く二十三日に結婚した。私達もすき焼を食つてその日を祝った。私は冬休果てて京城(今のソウル)に帰った時、新しい着物を着、新しい家に住んだその茶碗を見て、その表札に「細漣」と署してやることを、一つの小さな楽しみとして居る。
(昭和十四年十二月二十七日)
文中のX君が浅川伯教であり、伯教の性格や安倍がどのように浅川家と親しんでいたかがわかる。
亡くなった上杉美恵子さんの結婚式のとき、現平成の明仁天皇が誕生し、(1933(昭和8)年12月23日)サイレンがなった。「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋・作曲中山晋平)という奉祝歌がつくられ唱われた。その時のことを安倍能成は書いている。
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
天皇陛下喜び みんなみんなかしわ手
うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた
皇太子(平成天皇)誕生への祝意強制の社会的同調圧力が、自然のごとく行われた時代であった。それは植民地朝鮮でも国内と一緒であった。
上杉美恵子さんは当時日本の植民地であった朝鮮の京城(現ソウル)に住んでいた浅川伯教とたか代の二女として1917(大正6)年に生まれた。そして、彼女は一世紀生きた。浅川巧の一人娘園絵は同じ年で、60歳で亡くなったが、生きておられると100歳なんだと認識した。美恵子さんは巧が亡くなった日も巧宅に遊びに来ていて、巧の死を目撃した人であった。浅川兄弟に直接つながる方は彼女が最後で皆天に召された。(勿論、その血縁の方々はご健在)
上杉美恵子さんが昭和8年の結婚の際、そのことを祝して安倍能成が書いた「細漣」さいれん(『自然・人間・書物』)と言う随筆がある。
安倍能成には幾冊もの随筆の本が出版されている。『静夜集』『草野集』『槿域抄』『自然・人間・書物』『青丘雑記』『涓涓集』等々は所持しているが、それらの随筆書のなかに必ず浅川兄弟のことが書いてあるのだ。『自然・人間・書物』の中にある「細蓮」を下記に転載した。文中 X 氏は浅川伯教のこと。
安倍 能成(あべ よししげ、1883年(明治16年)12月23日[1] - 1966年(昭和41年)6月7日)は、日本の哲学者、教育者、政治家。法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大臣、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長を歴任し、学習院院長などを務めた。 (ウィキペデイアより)
細漣 安倍能成(現代仮名使いに直し、高名な人の氏名を明記)
朝鮮陶器の第一の鑑賞家であり、又白分白身も傑れた陶器作家であるⅩ氏とは、京城に来てから間もなく知合になり、その一家一族の人々とも親しくなつた。家族を離れた京城に於ける私の一人生活が、このⅩ一家及びその周囲の人達によつて賑やかに又和やかにされて居ることは、私の平生から感謝して居る所である。私とⅩ君とは十数年の交によつてだんだん懇意になり、互の内輪事をも話し合う程度に達して居るが、Ⅹ君が名人肌の人物であつて、気分が熱さぬと動かぬ性質である為に、家族が迷惑することもないではなく、殊に陶器の製作と同じく娘の結婚を気の向くまで放任して置いては困る、とも思い.例の無遠慮から、私は時々自分の趣味や気分に淫して娘達の婚期を誤ることのないように、というおせつかいをⅩ君に向かって吐露した。
私はそういうことを言いながら、Ⅹ君が娘たちのことを心の中では深く考へて居ることも、芸術家気質の中にも決して人間的常識を欠く人でないことも承知しては居たのである。幸にして長女は昨年良縁を得、次女が叉この頃になつて好配と相逢うに至った。その夫になる人は、或る名高い法律学者Y氏(上杉慎吉)の子であるが、一、二年前から京城に来て私とも顔見知りの間であり、一見純粋を思わせる青年であつた。そうしてこの度の縁談にも私は多少の交渉があつて、その話の進捗に封するいくらかの功績をさへ自任して居る間柄である。私はこの冬東京に公用があつて早く帰ることになり、二人の結婚式に列し得ぬことを遺憾として居たが、出発の前数日に芽出たく結納のとりかわしを了したというので、その夜Ⅹ君一家から夕飯の招待を受けた。Ⅹ君の一家と親族と、工芸を中心としてⅩ君と親類附合をして居る人々、それからY君(戦前著名な上杉愼吉の次男上杉重二郎で労働運動史、北海道大学教授)の在京城のたつた一人の縁家なるZ氏夫婦や、この話に関係のあるY君の友人W君夫婦等、二十数人の会合であつた。 (中略)
私は学校の帰りだつたが、書物の外に一つの新聞包みを携へて来た。それは李朝初期の茶碗であつて、「かた手」と称せられる種類のものである。紬薬は大体白つぽい中に少し紫色を帯びた気持ちのいい感じであり、縁辺が真円でなく少しゆがんで居るのが、横から見ると気持のいい曲線の重なりになる。高台は平凡だが、薬のかからぬ赤土が今焼いたような新鮮な色を呈して居る。中の方の底部の平底的な形が私に気に入らぬのと、高台に少し凹凸があつて安定しないのとが欠点であつた。Ⅹ君は陶器の鑑賞をも製作と共に一つの修行と考へて居る人である。私も少し李朝のガラクタを集めたことはあるが、この方の修行も結局「玩物喪志」に至らねば徹底しないと思って、近頃はやめてしまった。ただ貧しくて愚かな、そうしてあまり下品ではない朴という男が、学校の部屋に色々下らぬものを持つて来るので、一つには勉強の間のうさはらしにそれを見ることもあるし、十度に一度位は買つてやることもある。
この茶碗はそういう中ではいい方で、私は東京から迭らせた抹茶をこの茶碗で立てて一日に一回は部屋で服することにして居たのである。その夜これを学校から持つて来たのは、Ⅹ君にその高台を安定にするエ夫をしてもらう為であつた。Ⅹ君はこの茶碗の趣をほめ、一体茶碗はあなたのように机の上に置くのでなく、畳の上に置いて飲むのが本当だから
“このままでいいでしょう”という話であつた。そこで結局茶碗はそのままにして、茶碗のきもののおしふくは、京へ行つて家元から習つて来たⅩ君の義妹U子さん(巧の妻の咲)に誂えてもらうことになり、箱はT君が引受けて作らせてくれることになった。
誰からとなく銘は何とつけるという話が出た。Ⅹ君に相談すると「十二月二十三日だね」
と答へた。十二月二十三日は当夜の婚約者が式を挙げる予定の日である。叉私の誕生日であり、私達夫婦の結婚した日である。その上恐れ多いが今の皇太子殿下(平成天皇)がお生れ遊ばして、国民的歓喜の沸き返つた日である。私は二十三日ときくと、直ぐふとその時出来た。「サイレン、サイレン……」という唱歌を思い出した。さうしてこの茶碗は「細漣」と銘しょうと思つた。
若夫婦の結納の日に逢着したその茶碗の縁から、彼等の結婚日と.皇太子様と日を同じうする私の誕生日、合せて私達の結婚日とを記念し得ると思つたのと、高台のでこぼこが少し茶碗をゆらゆらさせるのが、細い漣に小舟が小さくゆれるのと似て居るという故事つけもあつた。
若夫婦は予定の如く二十三日に結婚した。私達もすき焼を食つてその日を祝った。私は冬休果てて京城(今のソウル)に帰った時、新しい着物を着、新しい家に住んだその茶碗を見て、その表札に「細漣」と署してやることを、一つの小さな楽しみとして居る。
(昭和十四年十二月二十七日)
文中のX君が浅川伯教であり、伯教の性格や安倍がどのように浅川家と親しんでいたかがわかる。
亡くなった上杉美恵子さんの結婚式のとき、現平成の明仁天皇が誕生し、(1933(昭和8)年12月23日)サイレンがなった。「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋・作曲中山晋平)という奉祝歌がつくられ唱われた。その時のことを安倍能成は書いている。
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
天皇陛下喜び みんなみんなかしわ手
うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた
皇太子(平成天皇)誕生への祝意強制の社会的同調圧力が、自然のごとく行われた時代であった。それは植民地朝鮮でも国内と一緒であった。