2015年9月23日(水)
異文化の受容とはⅡ
 異文化の受容とは
 元号は混乱のもとで最近は平成を個人的には全然使っていない。それで、今年は平成何年かいつもわからなくなっている。しかし江戸時代が終わって、明治、大正、昭和と歴史が経ってみると、西暦ではわからない元号の時代の空気の違いを感じるのである。
 明治時代に怒涛の様にやってきた西洋の波を日本人は「人」を通して受け入れてきたように思う。また、逆にやって来た西洋側の人間で有名になった一人に小泉八雲 (Patrick Lafcadio Hearn、1850年6月27日生)がいる。彼は明治23年(1890)39歳のとき記者として来日。その後まもなく、島根県松江市の尋常中学校及び師範学校の英語教師となる。ここでは、松江の風物、人情が大変気にいった。そして、武家の娘小泉セツと結婚したが、冬の寒さと大雪に閉口し、1年3ヶ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ移り、さらに神戸クロニクル社、帝国大学文科大学(東大)、早稲田大学に勤務した。日本の伝統的精神や文化に興味をもった八雲は、多くの作品を著し、日本を広く世界に紹介した。明治29(1896)年に日本国籍を取得し、島根の旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に因み「小泉八雲」と名乗る。 明治37(1904)年9月26日、狭心症のため54歳で逝去した。八雲は明治と言う時代の日本には普通にあった日本情緒を特別なものとして日本人にも認識させた。
 浅川伯教・巧も朝鮮に行き、当時は色濃く残っていた李朝時代につづく生活(白磁のような陶磁器や朝鮮の人たちが普通に食べていた食事など)を、自分たちの日常の中に取り入れ、それを愛した。植民地の支配者側にいた日本人は朝鮮に行っても日本式生活様式(食事・住居・服装・言語など)を崩そうとしなかった中で、巧はいち早く朝鮮語を覚え、現地人のように駆使し、現地の寒さの中では暖かい朝鮮服を着て過ごした。その中でも朝鮮の人夫たちが朝鮮カラマツなどは冬の寒さに充てると芽吹くということを朝鮮語で話しているのを学び「露天埋蔵法」としてその成果を勤め先の朝鮮総督府林業技手として発表した。
 伯教は日本人の中で茶碗は、室町時代前半まで、中国産の「唐物」が最高と考えられてきたが、その後茶人たちが朝鮮の「井戸の茶碗」と名付けられたものを愛したことから、そのルーツを調べようとした。これは民衆の安物の量産品で、釉薬のかけ方も乱暴だが、形は素晴らしいものであった。意図せずに生まれたその姿を茶人たちは「わび」の美として評価した。中でも最高のものは国宝「喜左衛門井戸」(朝鮮・李朝時代16世紀)で、それはどこで生まれたのか、作陶者は名もなき陶工であったとしても、土はどこであったのか、窯跡を自分で探し、朝鮮半島700か所をも捜し歩いた。このように朝鮮の人も認識していなかった日本の茶文化から認められた陶磁器のルーツを探す、地味で報いの少ない研究に彼は没頭した。
 浅川兄弟は自分たちの感性で朝鮮の生活、研究を楽しんで過ごした。ラフカディオハーンは日本の生活の中で日本人の発する生活音やたたづまいを自分の五感で察知し、それを文学の世界で表現した。ハーンは明治と言う時代の日本を表現した。
 浅川兄弟は日本で育つ中で雑誌『白樺』に触れ、キリスト教の教会に所属し、キリスト者となってその精神・信仰で生きた。それらは明治から大正時代がかもし出す、若者たちが醸成した時代の風潮であったかもしれない。それらを花開かせたのが朝鮮と言う場であり、李朝文化への傾倒であった。なかでも朝鮮の工芸を継承し、本にして残し(『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』『釜山窯と対州窯』『李朝の陶磁』など)、今の韓国人に引き継いでいる。
 このようにして、お互いの文化、時代の持つ特色をみごとに掌握し、受容している。ハーンも浅川兄弟も国籍を超え、相手国の文化・生活を愛し、今も愛されている。
 
All Rights Reserved. Copy Rights 2015 Yamanashi Mingei Kyokai