2015年10月8日(木)
自分を捨てることのできる人
 先日のシルバーウィークの時、近江八幡・今津に行ってきた。目的はウィリアム・ヴォーリズの建築を学んで来たいの一点で、一途な思いで出かけた。一日地元の建築家でヴォーリズ研究家、一粒運動の推進者でありヴォーリズに関して様々な活躍をしている方に案内していただいた。地元には地元に根を下ろした人、またその作品を大切にしている人がいる。
 私はヴォーリズに関して、最近まで名前と建築家程度しか知らなかった。近江兄弟社やメンソレータムはそれとは別に知っていた。でも、それらがヴォーリズと言う一人の人を介して繋がっていたことを全く知らなかった。それに近所の宣教師館をヴォーリズと言う人が建てたということは聞いていたが、あまり関心を持っていなかった。そのヴォーリズについて、ネットと本で知って、「びっくりしたなぁ」と言うのが本音。
 ヴォーリズ本人が書いた伝記の中、印象的なのは1905(明治38)年2月2日、日本の寒い冬の真っただ中アメリカからたった一人で24歳の時この近江八幡にやってきたこと。それも宣教師団体の派遣ではなく、たった一人で伝手は近江八幡の商業学校の英語教師としてだけ。駅に英語のできる同僚が迎えに来てくれなかったらどうしたことであろうか。日本語も全く分からない状況で、英語教師はお金のないアメリカの若者が唯一出来る生活の手段。ここまで彼を突き動かしたのはキリスト教を伝道したい。それも宣教師と言う訓練も資格もない平信徒で。この情熱は信仰だけで強くなれるんだろうか。ところが、二日目に奇跡が起こった。奇跡と言うのは本人が望んでいないことだったら奇跡にはならない。夕方、宮本文次郎と言う青年が訪ねて来た。彼はいきなり「あなたはクリスチャンですか」と質問した。日本に来る目的の「一人でもクリスチャンを!」と言う願いが最初の二晩目にかなえられたのだ。一年や二年はかかると祈っていたことが最初から与えられた。こうしてヴォーリズのネットワークはキリスト教を柱に宣教と生活の手段として、大好きな建築設計の仕事・事業としてメンソレータムの販売などを後の会社名「近江兄弟社」を中心にして拡大していった。兄弟社は実の兄弟の会社ではなく、キリスト教的考えの人間兄弟姉妹の兄弟だったことも分かった。ヴォーリズは事業を大きく出来たが、自らを売り込むことはしなかった。ヴォーリズの名前は全国に知れ渡ってはいない。少なくとも山梨までは。
 浅川兄弟のことも地元は今でこそ知っていて、山梨県近代50傑に選ばれ、県庁別館(昭和5年の重厚な内装を持ち、最近創建時に甦った。甲府空襲の際、米軍は占領後を計って県庁と駅は焼かない方針の成果として残った)の中に近代人物館が設けられ展示はされている。映画にもなったが、全国的知名度は薄いと思う。
 浅川巧は40歳、肺炎で急死した。しかし、日記を書いていたので、兄伯教は敗戦後朝鮮から引き揚げざるを得ないとき、没収の憂き目にあいそうな巧の書いた日記を、自分の自宅に白磁を買いに来た金成鎮(きむそんじん)と言う人物を見込んで託す。彼は朝鮮人の中では有名な浅川巧を尊敬していたので、驚いた。朝鮮戦争の時は、日記を妻と釜山まで逃げる際、自分たちの貴重品と共にリュックに隠して守った。その存在を知った高崎宗司氏(津田塾大学名誉教授『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』の著者、故郷の親戚さえ知らなかった兄弟の足跡を詳しく調査した)が一度は断られながら、公共の場があるなら寄付するという言葉を一つの契機に「浅川伯教・巧資料館」が建てられ、今はそこに保管されている。『巧日記』としても出版もされている。巧の急死を電報で知った友人の柳宗悦(民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者、「日本民藝館」創設)は「あんなに朝鮮のことを内からわかっていた人を私は他に知らない。本当に朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうして本当に朝鮮人から愛されたのである」「取り返しのつかない損失である」と嘆いた。高崎宗司氏は柳宗悦があんなに褒めちぎっている浅川巧とはどういう人物だろうかと。柳があんなに褒めちぎっているのに伝記さえない人物、誰も取り組んでいない人物として調査した。鶴見俊輔らの『思想の科学』に勤務していた時で、浅川兄弟の連載を勧められた。若く無名の高崎宗司氏を認め、書く機会をつくり、適切な助言を与え、育ててもらった。「鶴見俊輔さんは名編集者であり、名教師であった」と2015年7月20日逝去に際し『民藝10月号』に追悼している。草風館の主宰者内川千裕がその連載に目を留め、出版した。映画(実名を使いながら内容はドキュメントではない)も上映された今だけれど、浅川兄弟は全国的にどのくらい知名度があるか、わからない。
 ヴォーリズは「他人が書くくらいなら自分が書く」として最晩年『失敗者の自叙伝』を残し、事実に対し自らの真情も吐露している。それも死後、昭和45年初版発行された。昭和16年帰化後の名前「一柳米来留(ひとつやなぎめりる)」著者名で、近江兄弟社版権所有者として。
 ここで、知名度競争しても仕方がない。浅川兄弟のことはよく知っている地元の人間も、滋賀県から離れた山梨に於いてはヴォーリズのことはほとんど知らないと思う。キリスト教を通してヴォーリズに関心を持った私は、その人間性にある共通点に心を奪われた。功名心も私腹欲も無く、ただひたすら自分の関心あること、好きなことを追い求め、研究した。仕事とした。彼らは共に、仕事、作品、著作、自伝や思いがけず日記も残したが、83歳で亡くなったヴォーリズは最晩年国からの黄授褒章や死後勲三等瑞宝賞を受けた。兄弟はもちろん何もない。しかし、当時の朝鮮人には心に残る人物として慕われた。安倍能成(漱石門下・京城帝大・旧 一高・文部大臣・国立博物館長・学習院長)も「正しい 義務を重んじる、人を畏れずして神のみを畏れる、独立自由な、しかも頭脳が勝れ、鑑賞力に富んだ人は、実に有り難い人である。巧さんは官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで堂々と生き抜いた」「朝鮮のために大なる損失であることは言うまでもないが、私はさらにこれを大きく人類の損失だというのに躊躇しない」と残した。それは昭和9年頃、旧制中学用国語教科書に『人間の価値』として掲載された。
 ヴォーリズも多くの教え子たちが共同事業者となり、その会社ではクリスチャンになると給料が高くなった。子供が増えると増えた人数分給料が上がった。教え子吉田悦蔵著『湖畔聖話』(大正15年初版)の中で「バイブル(聖書)を教えた罪で学校を免職になりました。学生の寄宿舎の食費はいくらですか」と問われ、「4円50銭です」と答えるとヴォーリズは「神よ私に毎月4円50銭だけ下さい」と声に出して祈った。それを聞いた吉田悦蔵は「親譲りの財産をこの異人さんの事業に投げ込み、共同の財布で20年近く暮らしてきました」と書き残している。事業が成功しても自分の持ち分は食費など必要な分だけと言う生活は周りの人たちから精神と行いと一致していると信頼を生み出していった。
 賀川豊彦(キリスト教社会運動家、社会改良家。「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。平和学園の創始者)は吉田悦蔵著『近江の兄弟等』の「趹」にヴォーリズは「いついかなる時でも快活で一生懸命である。天才である。彼は日本のために天才を自ら殺したのだ」と。
 今の私はこの方たちに逢ってみたい。話をしてみたい思いでいっぱいだ。
 『彼は明確な頭脳と温かい眼との所有者であった。しかしそれらを越えて私を引き付けたのは、その誠実な魂であった。彼程…自分を捨てる事のできる人は世に多くはない』柳宗悦
 
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