2015年10月15日(木)
尾瀬を歩いて
 10月の三連休に「尾瀬」を歩いてきた。最初に尾瀬に行ったのは1955(昭和30)年今から60年前だ。尾瀬で一緒になった人にこう言うと、皆一様に「ウゥンッ」と訝しげな顔をして、「あんた何歳だ?!」という顔をする。まぁそれはそれとして、その後大学の時50年前行った時は6月水芭蕉の咲くとき行った。なのに、体力的に力があり、時の勢いで行ったのは全然覚えていない。60年前の子どもの時行ったときは、大人に交って楽しかった思い出で、私の山好きの原点になった。あのころは夢のような尾瀬だった。池塘に浮かぶ浮島に乗って叔父と遊んだ。今はもちろんこんな遊びはできない。浮島も少なくなった。昔の木道は歩きにくい湿原のためにあったが、今は木道しか歩いてはいけない。人間のほうが木道と山小屋しか自由に動けない。他は禁止だ。サファリのように自然界に人間の方が閉じ込められたかたちだ。人間はおしっこもままならない。WCとある所しかできない。それもトイレを使ったら浄化槽維持のためチップ代を100~200円出す。人間がのさばり過ぎてきた結果の象徴のような場所が尾瀬だ。これから私たちはどうなってしまうのだろうか。
 浅川兄弟は若い時、まだ朝鮮に行く前から雑誌『白樺』を読んでいた。『白樺』は、1910(明治43)年創刊の同人誌で、学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。白樺同人たち(武者小路実篤・有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦等)が例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである。そういう意味で若かった浅川兄弟は現北杜市高根の田舎に住みながら時代を敏感に感じ取っていた。浅川伯教は甲府の師範学校へ入って、図画工作の教員になった。教員は生活のため。巧が生まれる前に父は死に、7歳下の弟、3歳下の妹、それに母がいた。当時戸主制度下の長男としては家族を養っていかなければならない。伯教は『白樺』でロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術を知った。その中で特にロダンに傾倒した。それで、1912(明治45)年7月には彫刻家新海竹太郎に入門。その芸術的才能は父方の祖父(俳号を6世蕪庵と言い、近所の熱田神宮境内に句碑が残る)や母方の祖父(千野真道と言い、1966(昭和41)年逝って、60年後「医神両全」のタイトルで顕彰碑が建立)から受け継いだと思う。兄弟は朝鮮の田舎の旅に出たとき、宿で何時も故郷を話題に登らせ、故郷の思い出に浸った。幼い日の面白い田舎の行事や周囲の良き人たちの話を誰彼となく次から次へと浮かぶその追憶を語り更かした。そして祖父のことに話題が入ると「良いおじいさんだったなぁ」と思わず言って話を結ぶ。おじいさんの性質を最も良く受けているのが巧であったと伯教は言う。
 最近の世界は今までの直線型で、最終的に作られたものはゴミとして消費してしまう経済から、循環型の経済に移行しないと有限なものは枯渇してしまうと言う。今、経済が循環型になっていくということは浅川兄弟の祖父の時代のような価値観に戻るということだ。おじいさんたちは何一つ無駄にしないが、欲もかかない。俳句で得た謝礼金は見もしないで入れ物の中に溜め込み、下から使っていく。亡くなった時そこにはもう使われなくなった20銭札もあったという。学問を修め、地域の人のために尽くし、和歌俳句に親しみ、宗教を重んじる人であった。趣味豊かに暮らし、植物にも関心が深くと。巧も小さい時、山から松の苗を取ってきて植えるような子だったという。巧は『白樺』からトルストイを知り、トルストイアンでもあった。新しい時代の息吹を伝えた『白樺』から、新しい時代に生きる糧や芸術を知った浅川兄弟の生きた時代は、今は遠い過去の時代でもある。
 人生はやり直せないけれど、かつて訪ねたその地は訪ねられる。私が子ども時代行った同じ尾瀬ではなかったけれど、人生もそうなのだ。私たちも北杜市高根町の生家周辺を訪ねるとどんなにおじいさんたちが二人の生育に影響を与えたかを人物と自然環境で感じることが出来る。『巧日記』を韓国語に翻訳した金順姫(きむすんひ)氏は翻訳するにあたって、巧の発想や感情を現地に行って感じないと表現できないと、実際韓国からやって来た。
 巨視的に見て世界も、幸せとは何かも、自然保全も根は一つ。浅川兄弟が培ってきた価値観、それは明治の田舎のおじいさんたちが持っていた価値観、ほどほどの幸せで生きること。名を揚げ、富を蓄積し、上から下への目線でない生き方。新しい時代の息吹を伝えた『白樺』から影響を受けた浅川兄弟も結局、幸せは『青い鳥』のように身近にあった。
 家庭に在っては鉄砲玉のように戻って来ず、陶磁器研究に専念していた伯教でさえ、良き父であり、朝鮮人街に住んだ伯教宅には朝鮮人や教会の人など常に人の集うあたたかい家庭であった。家族思いで誰にも優しかった巧が40歳で亡くなった時、妻の咲はどんなに嘆き悲しんだことか。叔父政歳宛て手紙を読み返すたび私はいつもジーンとくる。
 尾瀬からの帰り、会津高原尾瀬口駅までのバスは2時間近く東北の真盛りの紅葉のトンネル道を走り、桧枝岐村など福島の村々を抜けて走った。私は地方で生きている人々の家々を見た。コンビニなどは一軒もなかった。
 そして、尾瀬に象徴される循環型、リサイクル社会に私たちも協力しないと生きていけない社会に移行しつつあることを思った。浅川兄弟のように田舎で育ち、田舎を持つ幸せもバスに揺られながら思った。都会ばかりが膨らんでいく社会、田舎はどこも過疎になりつつある社会、これからの日本経済は循環型のリサイクル経済を目指すと言いつつ、人口増についても循環型の社会を目指さないといけない。過疎と限界集落に若い人たちを呼び込み、動態人口に於いても循環型になって行く手立てはないものか。今、若い人たちに影響を与える『白樺』のような雑誌はない。時代を象徴し、影響を与えるような雑誌はつくられないだろうか。そこで、これからの社会を読み解き、生活を生み出す仕事を創造していく若者は現われないものだろうか。いいや最近のニュースで、こういう若者を紹介しているのを見た。私は新潟で無農薬でお米を作っている一家を知っている。家までも手作りで作る。つくれるものは自分でドンドン作ってしまう。もっと別の時に紹介したい。新しい時代の変化は最初、徐々に現われるものだ。私たちは難しい時代だが、新しい時代を生きているのだと実感した尾瀬山行だった。 
 
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