2015年11月26日(木)
伯教、野尻抱影との交流と短歌
 甲府駅にほど近い愛宕山の紅葉の最盛期は近年、12月に入ってからだ。毎年繰り返されるこの四季の移ろいも今年はどうかと気になる。今日11月14日は朝から雨模様で天気が悪い。高い南アルプスの山や富士山では今このとき、雪が降っている事だろうか。晴れたら雪景色の山々が見えるだろう。甲府は「山の都」と言われながらこの素晴らしい山々の持つ景色がスイスの景色に匹敵する美しさを持っていることを私たちはどれだけ自覚しているだろうか。この風景にほれ込んでいる人々も知っているが、日々は何事もなく、この景色も大したことないように過ぎていく。
 その後、晴れて南アルプスの稜線がくっきり見えた時驚いた。この11月なのに3000mの山なみも青山のまま。えぇあの稜線も雨だったのか。今年の11月の暖かさは枯露柿作りに大きな影響を与えているようだ。専門の業者さんでもカビが来て全滅ということも地方新聞に出ていた。35°の焼酎を霧吹きでやるといいとか、扇風機で風を送るといいとかも聞くが、家では今のところ安泰で、夜もベランダ部屋のガラス戸は網戸だけにして閉めないようにしている。
 夜もそれほど寒くないので、星を見ていると野尻抱影(のじり ほうえい)のことを思いだした。彼は1906(明治39)年早稲田大学文学部英文学科卒業。学生時代、小泉八雲の指導を受けた。1907(明治40)年に甲府市の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の英語教師となり、1912(明治45)年まで6年を甲府で過ごす。まだ甲府城内に校舎が在った頃だ。結婚を機に東京の麻布中学校に転任。彼は星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多いという。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。収集した情報を『日本の星』および『日本星名辞典』等に集大成して出版し、晩年まで改訂を続けた。1930年(昭和5)年、冥王星が発見される。欧米では Pluto と命名されたが、野尻の提案で和名は冥王星となる。この名は現在、中国等、東アジアで共通に使用されているという。弟は作家の大佛次郎。妻は宗教家・教育者・言語学者として知られる甲府中学校長の大島正健の三女・麗。
 彼の著書に『山・星・雲』がある。これは野尻抱影没後出版された未刊随想で、甲府時代の思い出を随想している。巻頭の-甲斐の春-では1906(明治39)年浅川伯教が師範学校を卒業した、そのころの交流が描かれている。
「わたしは師範訓導の浅川伯教君と、南の市川大門町の寺を訪ねたことがあるが、鉄道馬車から、農鳥と間ノ岳が、刈株の黒く残る水田にはっきりと白く映っているのを見て、春が後もどりしたような感じがした。
 また、そこまで下ると、間ノ岳の北に甲府からは見えない北岳が、まだまっ白にそそり立っていた。「シューマイみたいな山だ」と言って笑ったのだが、次いで「北に遠ざかりて、雪白き山あり、問へば甲斐の白根と答ふ」という古文は、この孤高な山にこそぴったりすると思った。
(途中略)
 こういう春のあいだにも、山国のことで、急に冴え返る日がある。これを土地では昔から「木の股裂け」と言っていた。陽気でぬくまっていた樹々が、気まぐれの寒気に凍って、枝の股がひび割れる意味である。初めてこれを聞いた時、季語としてすばらしいなと思った。それで、庫郎(菊池)君や浅川(伯教)君、後の自由律の秋山秋紅蓼君、そして先輩の飯田蛇笏君をも時どき迎えていたカフフ吟社で、「木の股裂け」を季語として中央俳壇へ提案してはどうかと言った記憶もある」と。同じ甲府で師範の訓導であった伯教とは東京から甲府中学へ赴任してきた野尻抱影と出会って仲良くなったのだろう。

 浅川伯教は父方のおじいさん(俳号6世蕪庵四友)の影響か、俳句や連歌に秀でていた。特に母方の祖父千野真道が亡くなる日に、危篤と聞いて集まった人に「歌を詠め」と言い「全部の人の歌を一枚一枚見て、この中で伯教のが一番良いと言って死んだ」というような人であった。
 伯教が戦後、京城から日本に戻って来て、昔の交友関係が復活したようだ。かつて同僚であった伊藤生更(アララギ派の歌人。短歌雑誌「美知思波」を昭和10年創刊。2014年(平成26年)80周年を迎えた)宛てに短歌を書いて添削をお願いした。その実物も拝見した。伯教の短歌を私は好きだ。

皆が帰国を急ぐ朝鮮にて、朝鮮民族美術館や陶磁研究整理のため残った1945(昭和20)年暮れごろ
 今日も亦茶碗と一日暮しけり かよわき者の 美しきかな
 オンドルの煙の波に沈む町 つづみ長閑けき アリランの唄

戦後千葉黒砂にて      
 秋雨の漏りのかなしき 庵なれど 空も我がもの 海も我がもの

京城から友人安倍能成が帰国する際の送別会で詠んだ短歌
 村々は夕げのもやに沈みゆき 水広山に さし登る月

戦後の短歌
焼跡に煙突黒く月澄みて 秋のあわれを 鳴く虫もなし
やぶれても国なつかしき汽車の窓 山のみどりに 海の紺碧
月見草提灯花におぜん花 庭に咲かせて 故里を偲ぶ
秋風に羽織はをれば老父くさし ひたに偲びぬ 吾祖父のこと
一人居り鏡の前に顔みれば このかおにまで よくも生きしか
如月の炭を貰いにはるばると いくつもくぐる 甲斐のトンネル
西山の奥に世界のあるも知らず 吾が育ちたる 逸見の台かな
昔見し浅尾大根の浅尾原 トタンの屋根が 今は目につく
頭から膝までみそをなすられて みそなめ地蔵 おわしますなり
柳沢黒沢新ごく牧の原 昔先生を していた所なり
八ヶ岳麓の駅にをりも得ず はるかに拝む 故里の暮
春はよし夏も亦よし秋もよし 冬はなおよし 有難き国
破れ茶わん吾身のさがによく似たり いたわられつつ 抹茶頂く

籠り居れば祖国は日々に遠ざかり あれたきままの冬の風かな 伯教
北の方(かた)より駒鳳凰農鳥と 我が目を移す雪の高山 生更
 
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