2015年12月17日(木)
小山冨士夫の「朝鮮旅行」浅川兄弟への批判について
 穏やかな師走の一日、もう今年も終わると思っても、思うだけでいつもと変わらない一日が暮れていく。甲斐駒も鳳凰も谷筋の雪が寒そうに、白峯は真っ白で雪の深さが偲ばれる。
 枯露柿作りも仕上がりつつある。寒さも増してきたのでかびる心配はなくなって、順調に柿の表面は乾いて粉も吹いてきた。そろそろこのくらいの柔らかさで食べてみようかなと思って食べればよいのだ。自分で作る特権はいつでも好きな時に好きな固さで食べられること。今年はいつも柔らかいのは好きでないからと食べなかった柔らかいのを食べてみて「ウゥン、おいしい!!」とその柔らかさのおいしさに目覚めた。年をとっても新しい発見はあるものだ。こんなことでも喜びだ。早速、母に食べさせ、叔母にも送った。

 浅川兄弟の故郷今の北杜市の鉄道は1904(明治37)年「韮崎」まで開通した。朝鮮では1902(明治35)年10月1日に京釜鉄道が完成し「釜山」から「京城」まで鉄道が通るようになった。
 浅川兄弟は鉄道に乗るために自宅のある北杜市高根町五丁田からこの韮崎まで歩いて行った。直線で15㌔ほど、3~4時間はかかる。昔の人は歩くしかないから、93歳の母の話でも良く歩いたようだ。
 
 1939(昭和14)年の『陶磁』に小山冨士夫(1900年生~1975年没、陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家)が「朝鮮旅行」を書いている。彼は京釜鉄道で釜山から特急「あかつき」に乗って441.7kmで京城(現ソウル)に着いた。「あかつき」は、1936(昭和11)年12月1日に設定された朝鮮鉄道唯一の特急列車であり、食堂車、展望車を連結した看板列車であった。下関で関釜連絡線に乗り換えれば、翌日早朝に釜山着、特急「あかつき」に乗車すれば午後2時5分に京城に着く。小山の紀行文によればその「あかつき」に乗車して見た景色を書いている。
 1916(大正5)年を皮切りに戦前21回も京城まで行った柳宗悦はその道中の様子を書いていない。小山冨士夫は釜山から京城までの様子を紀行文の名手らしく記している。小山の文章は朝鮮を今の韓国でいえば南東端の釜山から北西端のソウルまで、車中から見た朝鮮の車窓を『陶磁』に書いている。そして、伯教の家を訪ねた様子も記している。

 「ひさびさに朝鮮を旅した。かつて美しい秋の野を足にまかせて歩き廻ってから十年余りにもなろう。新緑の朝鮮には自ら新らしい感懐があり、寂落たる風物は今更に深く心を牽くものがあつた。~~~~~略~~~~
 関釜連絡の雑踏や検察の厳しさは時局の非常性を識らしめる四月二十九日早朝釜山に着き、特急「あかつき」で京城に向つた。釜山近くの山々にも、日本の山々にも既に日本では見られない特殊な風格がある。やがて、列車は洛東江に沿って走り出した。山湖のような静かな水面に蛾々たる遠山を映した寂寥たる景観が朝の清らかな空気の中に鮮人の貧しい生活が絵のやうに窓に描かれては消えて行く。やがて列車は洛東江に沿つて走りだした。山湖のような静かな水面に峨々たる遠山を映した寂蓼たる景観が、朝の清らかな空気の中に澄み切つてゐる。白衣を着た農夫の行く姿や、山懐にひそんでゐる小さな部落は、静かな景観を一層静かにする。
 突然ひろびろとした縁岸に巨然たる老樹があらはれた。ひろい流れと峨々たる遠山を背景として、寂然一幅の名画を見るやうである。梁楷の雪景山水を連想させるやうな粛乎たるものがあった。亀浦、忽禁、院里と汽車は美しい流れに沿って走り、三浪津を過ぎてから山地にかかつた。釜山から大田までの間は製陶に縁りある土地ばかりである。三島に金海、染山、密陽、昌寧、慶山、高霊、星州、金烏山、善山等の銘の款せられたものがあるが、汽車はこれら窯址群の間を縫ふやうにして進む。明治十年モールスが始めて日本に着いた時、横浜から東京までの汽車の窓から大森貝塚を発見した。これが我が国に於る最初の貝塚の発見だとのことであるが、愚鈍な私の眼力ではこの窯址群の間を走つてゐても、一つとしてそれらしいと思ふものさへ見出すことが出来なかつた。たゞ現在甕壷類を焼いてゐる雑器窯は、院里、新洞、若木、一山、金泉等の駅近くにあるのを車窓から目撃した。山地にかゝつてからは草津電鉄沿線のような高原地帯がつゞく。煙つた雑木の新緑の美しさや、思はぬ山中に子供の遊んでゐる姿や、沿線到るところにある土饅頭の墓の多いことなど見るものすべてに感興を牽かれてゐたが、単調な景色にも漸くうみ、長旅のつかれでうつらうつら居眠りを始めた。汽車が大田に停つて目が覚めた。広芒たる原野の先に鶏龍山の山塊が蜂ってゐる。かつて訪れた山麓の窯址群や東鶴寺のことなどを思いかへしてなつかしかった。大田を発してからは再び単調な山河が続き、単調な農村の生活が車窓に写る。京城に近づいて車内は漸くざわめきだした。前年永登浦の窯をたづねたことがあるが、このあたりの全く面目を一新した工業都市と化してゐるのには一驚した。漢江を距ててギザギザな北漢山の頂きが、天を噛むようにそゝり立つてゐるのが心を躍らせる。午後二時京城着。その日は所用を果して早く眠りに就いた。」

 小山は釜山を早朝発ち、「あかつき」に乗ると京城に予定通り着いている。紀行文は時刻表を見るようで面白い。浅川兄弟も柳宗悦も日本との行き来にこのような旅をしたのかと思える臨場感がある。
 
 「翌三十日朝は浅川さんを御たづねした。鮮人街の一隅にある浅川さんの家は如何にも浅川さんらしい御住いである。庭に雑然と焼損じの壷類のころがつているのも親はしいながめであつた。突然の御たづねを悦んで迎へられ、天井の低い和韓相半ばする客間に通された。室は朝鮮風だが、これに床があり、爐が切つてあるのは、よく浅川の心地を物語るもののようでもある。
 浅川さん兄弟ほど朝鮮を知り、朝鮮人を愛し、その民族性に深い共感を抱いてきた人は少いであろう。然し近年頭髪の目に立って白くなられたとともに、その心地は漸く日本的なものに鎮っておられるのではないかと感じた。永い歳月朝鮮の陶磁器を熱愛し、その美しさを高揚してこられた功績は今更謂うまでもない。又朝鮮のすみすみまで歩いて窯址の発見につとめられ、又わづかに命脈を伝える伝統的な窯の保存に意を用いられた業績は大きなものである。我々は浅川さんの業績が綴った著書となって永く残ることを心から願つてゐるが、浅川さんは近年文筆を折り、世捨人のやうに黙々と「茶」の一路にしづまつておられるやうである。然し独り浅川さんばかりでなく、反町さんにしても、鹽原さんにしても、田邊さんにしても、鑑賞陶磁の錚々たる蒐集家たちが、皆さん茶器蒐めに転向されてゐることは、今日形式化され、死灰化したやうに思はれる茶道が、深い日本人の精神、感覚から生れたものであり、誰もが最後に行き着く魂の安息所だからであらう。爐邊には李朝鉄砂の壷にひたひたと水が湛へられてゐる。眞白の器地に奔放な鉄絵草花文のある実に美しい李朝鉄砂だつた。奥様の御手前で薄茶一服を戴いた。近所で鮮人の大工が家を建てながら歌うなごやかな民話が、釜の音と和して言い難い恍惚さに誘はれる。帰途都合では一二の窯址を訪れたいとその明確な地点の教示を仰いでゐるところへ、伊東槇雄氏が来られ、続いて王子製紙の横井半三郎氏が来られた。」

 1931(昭6)年4月2日に浅川巧が40歳、急性肺炎で亡くなり、親族の嘆きは推し量ることは出来ない。妻咲が巧の前妻みつえの弟政歳に送った手紙にもそれは言葉として残っている。
 その後、京城に住み続けた伯教一家は前と同じような生活を続けながらも、時節柄
「文筆を折り、世捨人のやうに黙々と「茶」の一路にしづまつておられるやうである」。と小山は書いている。昭和14年にして朝鮮に住むということはこういうことかとこの後におこる真珠湾に始まる戦争をどのようにして耐えたのだろうか。
 朝鮮人街に住む浅川宅で、薄茶を飲みながら朝鮮人の大工の唄う民話のような歌、釜の音に恍惚となる小山の感性も好きだ。伯教夫婦は二人の男子を授かりながら一人は育たず、長男は30歳位で亡くなったとか。女子は長女も次女も長生きで、特に次女美恵子さんは今もお元気で娘さんご夫婦と暮らしている。
 浅川兄弟について、あの時代1912(大正2)年朝鮮に渡り、伯教は1919(大8)年まで公立小学校の訓導であった。そして、3・1独立運動がおこった3月に辞めている。その後は妻たか代が梨花学堂(現梨花女子高校)のような私立女学校で日本語や英語を教えながら生活を支えた。その後、1928(昭和3)年から「財団法人啓明会」から研究費をもらうまで主な収入はたか代が支えた。
 巧は林業試験所に勤めた。とはいえ総督府直属の農商工部山林課の雇員であった。巧は亡くなるまでそこに所属した。(亡くなる前、4/3日付けで辞めると巧本人が語っていたという人もいる)。
 浅川兄弟に対しての批判の一つに政治的には問題のあった朝鮮に住み、兄弟は批判的でなく、体制に順応し、植民地朝鮮を支配する側にいた等との批判だ。(巧日記の中では体制を批判している)
 巧は清涼里の官舎に住んだが、彼の死後の母娘は巧の保険で住宅を3軒建て、一軒に住み後を家作として貸し、生活費の足しにした。今もその内の一軒は日本家屋として残っている。
 伯教一家は朝鮮人街に住み、日本人と群れてはいない。1919(大正8)年三・一独立運動後の斉藤総督以来日本は「文化政策」に転じるが、その一環として毎5月に開かれた「朝鮮美術展覧会」には伯教は関わっている。昭和4年に書かれた本人自筆の履歴書にその関わりが残されている。
また、「朝鮮工芸展覧会図録」(朝鮮総督府後援)には伯教の「朝鮮陶磁について」の論文も載っている。
 伯教の考えは芸術なら国境を越え、政治を超えられる。芸術なら民族を超えられるという考えであった。浅川兄弟の朝鮮での生活、朝鮮の人々からの受け入れられようを見ていると、血を流し闘争し、批判し、自己を高みにおくのではなく、日常を共に過ごし、お互いに受け入れられる、受け入れる生活をすることも一つの闘争の姿ではないか。日本の植民地と言う特殊な地で生きたくないとその場を去り、居なければ免罪になるものでもない。総督府の手先であったという言い方の中に含まれるものから想定される批判は日本人なら誰も逃れることは出来ない。私たちは過去を一様に背負っているのだ。どの場に在っても「いかに生きるか」を今の私たちも問われている。浅川兄弟の「いかに生きたか」を検証しても、浅川巧日記を読んでも「あの時代だから仕方がない」という言い訳は滅多に出てこない。彼らを今の時代に置いても遜色ない。やっぱり、今の時代に出逢ってみたいと思う。
 
All Rights Reserved. Copy Rights 2015 Yamanashi Mingei Kyokai