2016年1月1日(金)
2016『浅川巧日記』を読み解く1922(大正11)年正月より(1)
 『浅川巧日記』を読み解く1922(大正11)年正月より
 
 2016(平成28)年の元旦は天気晴朗、雲一つない冬晴れの穏やかな朝からはじまった。こんな元旦が穏やかな日であればあるほどこんな年はどんな年になるんだろうかと一抹の不安を感じないではいられない昨今だ。自然が穏やかであればあるほど不安を感じるって、昔はなかったように思える。私たちは2011年の3月11日以来そこはかとない不安を身に感じる。地球の変化は人間にとって災害の歴史だ。しかし地球上人間が住むようになり今や全国、いや世界にその規模の災害は衝撃を与える。人間が住んでいなかったり、報道されなかったりすれば、私たちは災害とは言わない。地形の変化は災害の連続で成り立ってきたということすら忘れてしまう。それに比べると人間の歴史は瞬きほどだ。しかし、その瞬きの中で人は2011年のことだってもうすでに風化させている。忘れかけている。勿論、被災地の方々にはこのような物言いは申し訳ない。言ってはいけないと思うが、被災地に住まない私たちはつい思ってしまうし、そう思う人は多数になっているようにも思う。
 94年前の1922(大正11)年1月1日から書き始めたと思える「浅川巧の日記」が残されている。大正11年の翌年12年には関東大震災が起こり、歴史時代の記録に残る災害であった。特に朝鮮人に対するニュースが段々伝わってくる一週間後の日記も残っている。浅川巧の憤りが素直に伝わってくる。その日記は奇跡のようないきさつで残った。
 まず一回目の奇跡は1945年の日本敗戦、韓国の光復時。その際、日本人の引き揚げがはじまった。検閲でとても日記など持って帰れない。時期にもよるが身まわり品も制限され、持てたとしても無事かどうかの保証はない。その時、伯教は自分を訪ねて、伯教の言い値で見立てた陶器(李朝十角面取祭器)を買った金成鎮(キム ソンジン)さんを見込んで、浅川巧の日記を託した。どのような世の中になるかわからない。先の見通せない混乱の時に、託すことで日記とデスマスクは生き延びると考えたのだろう。現に残った。
2回目は朝鮮戦争時だ。1950年6月25日早朝10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。金成鎮(キム ソンジン)さんはソウル(戦前の京城)が北朝鮮軍によって占領され、釜山目指して妻の安貞順さんと逃げた。その時背中のリュックの中に隠し持っていたのが「浅川巧の日記」だった。自分の財産を持てるだけ持って逃げたかっただろうに、自分の貴重品と同じ重みで「浅川巧日記」をリュックに入れていた。途中の太田(テジヨン)の駅前でその夜泊まる旅館を探しに行った夫の金さんを待っていた妻の安さんはリュックの中を調べられそうになった時、お得意の英語をまくし立てて難を逃れ日記を守ったと私に話してくれた。
 そして、1983(昭和58)年高崎宗司先生が森田芳夫さん(『朝鮮終戦の記録』著者)に連れられて日記を見せてもらいにソウルまで金成鎮さんに会いに行った時、日記のコピーを頼むと金成鎮さんはその時は断った。しかし、1996(平成8)年1月、浅川巧全集に載せたい旨を話しに行った時はしかるべき保存できるところがあれば寄付するとまで言われた。
 こうして「浅川巧日記」を私たちも読むことができるようになった。金さんが伯教から預かったものは1922(大正11)年の日記1年間と1923年の7月9月分それに「朝鮮少女」と名付けられた日記風随筆数点、伯教が描いた巧のデスマスクであった。
日記はこの1922年書き始めたので、一月というはじめにという項目を建てている。
この日記を終始読んで感じたことはこのように将来これを出版するか、参考資料に使うように書き留めている印象が強い。それになにより、この日記は原稿用紙に書かれていたのだ。だから伯教はこれは何としても残したかったんだろうと思う。

一月
 恩寵を感じつつ元気で大正十一年を迎えた。今年は出来るだけ日誌を書く様に努めやう。毎日書くための時間が祈りの心になれたら幸福を進めることに益あると思ふ。恵みを浄化することが出来ると思ふ。
 毎日の感謝と祈祷はこの日誌に書かれて行くであらう。省察、懺悔、慷慨、喜悦、悲歎、苦痛快楽の心をその都度写して置いて貧しい生活の記念にし私に慰めたり励ましたりし度い。目を覚まして祈らう。


と「はじめに」を書いて日記は一月一日から書きはじめている。
「恩寵を感じつつ」とキリスト者らしい巧の言葉からはじまっている日誌の冒頭は印象的であるとともにこの日誌の内容を表す象徴的な言葉と思う。「毎日書くための時間が祈りの心になれたら・・・恵みを浄化することが出来る」恩寵(神の恵)と祈祷この二つはキリスト者らしい巧の生きる姿勢を表していると思う。日記は慰めであり励ましである。目を覚まして祈ろう。今の私にとってもこのような姿勢で日記が書けたら自分にとって素晴らしい力になるだろうが・・・・・。
 
一月一日
 日本晴れで穏かで余り寒くもない。部屋を掃除してから政君に手紙を書いた。新年を迎へた悦びの心を伝へるために。午頃から江華の三枝君、家兄、水谷川君(学習院の學生)柳さん、赤羽君など集つて温突(おんどる)で話に花を咲かせた。
 秋以来美術館のために買つた物を皆に見せた。夕方皆揃つて貞洞へ行つた。途中古物屋二、三を見て廻つた。一緒に貞〔洞〕で晩飯をした。小場さんが来て慶州古王陵発掘の話をした。十一時頃帰宅ウヰスキー一杯飲んで寝た。


 政君は山梨県立農林高校で一学年下の浅川政歳のこと。政歳の姉で政歳が紹介して結婚した巧(18911.15生)と同年のみつゑ(1891.12.14生)とは1916(大正5)年に巧は結婚した。翌大正6年娘の園絵が生まれたが、みつゑ30歳の時、大正10年山梨県立病院で死去。そのため娘の園絵はみつゑの実家政歳の家で育てられていた。政歳への手紙は娘の安否を問うものであろう。
 家兄は浅川伯教のこと。終始日記では家兄と言って、伯教が最初に住んだ住所が貞洞だったので伯教のことは「家兄」か「貞洞」という言い方が多い。
「秋以来美術館のために買つた物を皆に見せた」これは浅川巧が1920(大正9)年初冬千葉県我孫子に住む柳宗悦を訪ね、「朝鮮民族美術館」設立が話し合われ、その為の準備として美術館に収めるための美術品集めを日々行わっていることが日記からわかる。
   
 
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