2016年1月8日(金)
2016『浅川巧日記』を読み解く(8)
一月八日晴
 午前中は柳さんと二人で美術館の品物整理をした。午後二時頃赤羽君が謄写版の器械と会員証の原稿を持って来たので夕方迄かゝつて約六百枚を刷つた。晩飯を食つて赤羽君と柳さんは帰つて行つた。朝、新田の大屋からはがきが来て園絵が元気になつて遊んでゐることを知つて安心した。園絵をどうかして自分の処に一緒に置く様にし度い。一緒に暮し度い。然し差し当り今の儘は最自然の策だと思ふ。神よ我が貧しき家庭を清め且つ御護り下さい。

  昨日のブレークに関する講演会と展覧会の準備を手作りで準備している様子がわかる。
会員証、今でいうチラシのようなチケットを600枚も刷ったんだ。準備に力をかしている赤羽君は赤羽王郎のことで、彼についてはじっくり後で書きたい。
 浅川政歳については新田の大屋と書いてあるが、新田は地名で大屋は大家、つまり本家と言うことだろうか。田舎ではよく大家とか分家を新家とかにいやとか言う。
 園絵の母親みつえが政歳の姉であった。その頃、甲府の県立病院で闘病むなしく、30歳で死去した。その後、政歳宅で園絵は預けられ、育てられている状況なので、園絵の元気さを喜ぶと同時に一緒に暮らしたい心情が記録されている。その為、浅川巧は京城の官舎に一人生活しているので、柳宗悦や多くの人が浅川巧宅に滞在した。しかし、ひとり暮らしの男一人が勤めながら、小学生の園絵を育てられる由もなく、今が最も自然な状況だと言っている。「神よ我が貧しき家庭を清め且つ御護り下さい」とキリスト教徒としては自然な祈りの言葉だ。
 
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