2016年1月3日(日)
2016『浅川巧日記』を読む解く(3)
『浅川巧日記』を読み解く(3)
一月三日 晴、平穏
 十時半今村さん宅へ行つた。水谷川君の帰りを待つて柳さんと三人で李王家の博物館へ行つた。途中朝鮮人の古物屋と支那人の靴屋を見て廻つた。博物館では平田氏が動植物園秘園の案内をして呉れた。昌徳宮は景福宮と比べると高麗焼と李朝焼の味がある。李朝焼が顧みられない様に景福宮が破壊されつゝある。李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されないかもわからん。此等が敬意を以て迎へられる日でなければ半島に平和は来ないだらう。秘園の建物や自然の適当に保存される〔こ〕とを希ふと共に景福宮の破壊を防止し度いものだ。晩飯は支那料理で簡単に済した。それから又支那靴屋を漁つた。僕が昨年買つて今迄履いてゐる靴の形を探したが京城中約二十軒の靴屋に一足もなかつた。靴の形もこの二、三年間に随分変化した。西洋風を加味して日本人や朝鮮人に向くものになつた。漸次悪化してゐる。以前の形は美しい。
 帽子を一つ買つた。柳さんの宿で二時間ばかり話して十一時過ぎに帰宅。点剣は竹細工の米の石抜きを作つて待つてゐた。


 「李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されないかもわからん。此等が敬意を以て迎へられる日でなければ半島に平和は来ないだらう」
 この日記から李朝時代の民族性の美は朝鮮ではまだ一般的には理解されていないことがわかる。勿論、一部専門家はすでに研究をはじめて、発表もしていたようだが。

 1752年、官窯は、京畿道広州都南終面金沙里から分院里に移設された。この年以降、1883年に分院里窯が官釜から民窯に移管されるまでを、朝鮮時代後期と区分している。分院里窯では、多種多様な技巧をくりひろげた。
それは、おそらく乾隆ころの清朝文化の隆盛による刺激や、英祖・正祖という英邁な国王の治下に当っていたことも影響しているであろう。とくに、中国からのコバルト顔科の輸入が潤沢になったため、青花の製作が盛んになったことは注目される。陶磁の用途も、祭器・酒器・食器・文房具・化粧道具をはじめ、枕側板・燭台・日時計・はかり・植木鉢・喫煙具など多岐にわたっている。文様も多様になり、描法は繁縟さを加えることとなった。鉄砂・辰砂・瑠璃、あるいはそれらの併用も見られ、装飾的効果を狙うようになり、陶磁器の工芸品化が進められた。19世紀後半になると、アメリカ・フランス・日本など外国勢力の侵入もあって国政は乱れ、1883年、広州官窯最後の砦・分院里窯もついに民窯に移管され、500年にわたる栄光の歴史を閉じたのである。(『東洋陶磁の展開』伊藤郁太郎より)

 昌徳宮は景福宮と比べると高麗焼と李朝焼の味がある。李朝焼が顧みられない様に景福宮が破壊されつゝある。李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されないかもわからん。この日記から昌徳宮は正宮である景福宮に対し、離宮であるが、当時も今も宮殿内では、最も創建時の面影を残している宮殿で高麗焼(青磁)に譬えられている。李朝時代王宮の景福宮は、1395年から李氏朝鮮の正宮であったが、秀吉の侵略時焼失以来270年間昌徳宮を使い、再建されなかった。朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移した。その後、1910年日本植民地統治以後王宮としての役割をなくした景福宮に代わり、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が景福宮敷地で1912年から始まり、1925年に完成した。王宮は日本植民地時代に敷地内の建物の多くが破却された。この様子を見た巧は日記の中で批判している。景福宮の破壊と李朝時代の芸術の味、民族性の美は当分理解されないと。
 現在は1865年当時に再建するための第二次復元事業が2011年から始まり2030年に終える予定である。第二次復元事業により379棟を復元し1865年再建当時の75%の水準を回復する。
 このようにして李朝時代の多種多様な陶磁器の歴史も李朝の幕が下ろされるとともに栄光の幕を閉じた。それを巧は「李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されない・・・此等が敬意を以て迎へられる日でなければ半島に平和は来ない」と巧らしい言葉で日記に書いている。

 「点剣は竹細工の米の石抜きを作つて待つてゐた」。
巧はこのようにして日常的に工芸品、日常用いる、工夫された道具を見て生活していたので「米の石抜き」はどう作るのかを知っていた。生きていたら『朝鮮の膳』以外の日常品の道具の本を残しただろうか。
 
All Rights Reserved. Copy Rights 2015 Yamanashi Mingei Kyokai