『浅川巧日記』を読み解く(7)
一月七日 晴
 午前中事務所に居た。
 午後は家で美術館の物品や冠岳山から採集して来た窯跡蒐集品の整理をした。一時半頃柳さんが来、四時頃赤羽君が来た。皆で一緒にその整理をした。五時半頃三人で出掛けて渡辺高等法院長邸へ行つた。柳さんを主賓にして秋月牧師、橋本氏と共に陪食に招かれたのだ。席上でブレークに関する講演会と展覧会開催のことが相談された。九時頃同邸を辞して講演会準備の為に北内へ紙を注文して赤羽君と鐘路で別れて柳さんと二人帰宅した。色々話して十二時頃寝についた。懿寧園の秋は静だ。


 柳宗悦がこの一月にやってきた歓迎会を渡辺高等法院長邸で開いてくれた。渡辺暢はキリスト教信者で浅川兄弟とも親しかっただろう。秋月致牧師は組合教会牧師で浅川兄弟のメソジスト京城教会とは違うので、渡辺暢の教会牧師か。巧の人脈の広さは追々日記でも私たちは知る。
「ブレークに関する講演会と展覧会」開催のことが相談された。これは後日、日記に出て来るが、長谷川町の日本基督教会で1月14日に行われた。このことはまたその日の日記のところで。
『浅川巧日記』を読む解く(5)(6)

一月五日 曇夕方雪、余り寒くない日
 六時に起きた。寝る時すべてを枕辺に揃へて置いたので二十分ばかりで身支度が出来た。七時前に柳さんの宿へ行つた。水谷川君と二人食事中であつた。僕も御馳走になつた。自分達一行三人は七時二十分南大門駅を発して八時すこし過に安養駅着。それから安養僑を渡つて安養寺跡を見て李朝白磁のかま跡二つから標本を沢山得て念仏庵へ行つて一休、午飯は三幕寺でした。寺で呉れたトンチミ〔水キムチ〕が美味かつた。[往きは]池氏の案内で陶土の出る処を見た。池氏は六十五の老体にも似ず元気に山を走り廻るのに感心した。厚意を謝して柳さんが毛皮の襟当を遣つたら随分喜んだ。白磁の鉄砂の染付をも[模]したかま[窯]もあつた。それから枯草刈の朝鮮人に案内を頼んで今迄知らなかつたかま[窯]跡を見た。雪が降り出したが寒くはない。山の線や山上からの遠望は随分よかつた。
 雪の道もよかつた。電車に新龍山から明治町まで乗つて又例の杏芳園で晩飯をした。  
西小門で二人に別れて九時頃帰宅、今夜はよく眠れさうだ。今日の遠足は収穫も多し愉快だつた。

 
 この日のことは浅川巧の本業の林業以外の著作でははじめての「窯跡めぐりの一日」に詳しい。第13年9月号『白樺』1922(大正11)年9月号の李朝陶磁器特集号と一般に言われている「李朝陶磁器の紹介」を公の雑誌ではじめて行った号だ。勿論、伯教はこの中に一番で「李朝陶器の価値及び変遷について」を書いている。
 「窯跡めぐりの一日」の紀行文本体には書いてないが、寝る時すべてを枕辺に揃へて置いたので二十分ばかりで身支度が出来た。巧の几帳面な性格が出ている。
 『白樺』の中では柳宗悦のことは民族美術館を進めるために来ていたYさんと紹介し、水谷川君は東京から学校の休暇を利用して朝鮮の美術を見に来ていたM君と紹介。柳宗悦のことはYさん、水谷川君は多分学生なんだろうM君だ。
 窯跡を尋ねたところのことは「釜跡めぐりの一日」を読んでほしいが、「安養駅の近くの二三軒ある亜鉛葺きの日本家は、朝鮮の冬にはふさわしくない。自然に調和しないのみか、実用から見ても非衛生的だ。貧相で、寒そうで、みじめに見える。おちつきがなくて、住んで居る主人は金が溜まったら日本に引き上げるのだ。と言う様な感じがする。~~~安養橋は安養川に掛けられた石橋だが、側に橋の名を記した石碑がある。橋は見事に出来ていて、そこにも昔の人の忠実な仕事の跡が、その儘に残って居る」。と書いているのが印象に残る。印象の悪いものはそこに住む人の貧相な生き様まで見て取っているが、石橋のようにいつ作られたかわからないが、良いものは仕事の跡まで読み取って良いと書いている。これらは日記には出てこない。でも、巧の「眼」が良く出ている。巧が「釜跡めぐりの一日」を書いたのも柳宗悦が『白樺』で李朝陶磁器の特集号をする意図があって書く要請を巧にしたものと思われる。巧はこの紀行文もいい。
 
 日記では夜9時頃帰宅とあるが、紀行文では「阿峴に帰ったのは十一時過ぎだった」と書いて終わっている。一日の行動を紀行文で見ると紀行文の方十一時過ぎが本当であったろう。

一月六日 晴、昨日降つた雪はあらましとけた。
 朝から午後一時迄かゝつて「松脂採取要領」の原稿を浄書した。それから総督府の博物館へ行つた。柳、小場、水谷川、金、卞、呉諸兄と一緒に博物館を見た。小場さんは此の頃慶州から発掘した金冠、玉類其の他の説明をして呉れた。皆が慶会楼の池で氷辷りをして打興じた。それから柳、水谷川両兄と三人で積善洞附近の古物屋を漁り廻つて葡萄の画の屏風や焼物数点を買つた。晩飯は例に依つて三人で鐘路鐘の裏の朝鮮の立呑屋でソーメンを食べて済した。帰途柳さんの宿へ寄つて二時間ばかり話した。
 風呂から上つて日誌を書いてゐる時、水谷川君の乗つた筈の平壌行の汽車が通つたから
窓を開けてランプを出して振り廻して信号した。気がついたかどうか。園ゑの感冒癒つ
たかどうか便りがないから少し心配だ。

大正10年朝鮮総督府作成京城府地図一部

阿峴北里にあった林業試験場(京畿道高陽郡延禧面阿峴北里(現ソウル特別市酉大門区北阿峴洞)の近くの日本家屋に住んでいた浅川巧の住まいを大正10年の地図で探ってみた。水谷川君の乗ったはずの列車にランプを出して振り回して、信号して、気づく範囲に住んでいたのであろう。今とは雲泥の差の静かな田園地帯だっただろう。
 林業試験場が出来たのは1913年4月で、この時札幌農学校を出て、俊秀の石戸谷勉が技手としてここを担う。開所翌1914年就職した巧は単なる雇員だったが、1917年には巧と共著で『大日本山林会報』6月号に「テウセンカラマツの養苗成功を報ず」と当時鉄道の枕木として需要の大きかった朝鮮からまつ養苗成功を書いている。
 林業試験所は1921年には阿峴北里から京城市外清涼里、つまり京城の西から東へ移転している。その為、巧も住まいを清涼里に移したことが2月25日の『浅川巧日記』に載っている。
浅川巧日記を読み解く
一月四日 晴、寒い日
 暫く着馴れた朝鮮服を洋服に着替へた為か随分寒かつた。柳、水谷川両氏と博物館で待合わせて美術館を見た。午後は柳さんと二人で日本人の骨董屋を廻つた。晩飯を支那料理杏芳園で済して次は今村邸に小場さんや東亜日報の劉さん嫂など集つて柳、水谷川氏も一緒に随分話しがはづんだ。

 暫く着馴れた朝鮮服を洋服に着替へた為か随分寒かつた。巧は朝鮮に来ても日本方式の生活やその態度を崩さない多くの日本人と違って、朝鮮服を着てみたら意外と寒いときは暖かい。その機能性に目覚めて日常的に着ていたことが日記に残っている。今日一番に書いたのはよっぽど寒かったのだろう。
 今村邸は今村武志、朝鮮総督府専売局長で柳宗悦の妹千枝子の夫。妹の家なので行きやすいのであろうか。妹千枝子は前年1921(大正10)年京城でお産の後没している。
 木場さんは木場常吉、朝鮮美術工芸の収集家であり、研究者。慶州の発掘も行っていることが日記に書かれている。
 東亜日報の劉さん、東亜日報、現大韓民国の日刊新聞。日本統治時代の1920年4月1日に創刊。本社をソウル特別市鍾路区に置く。朝鮮日報、中央日報とともに韓国の三大紙と称されている。3.1独立運動以降の朝鮮総督府による「文治政治」の潮流に乗って、金性洙・朴泳孝など政財界の朝鮮人有力者が中心となって1920年4月1日に創刊した。この時、社是として「民主主義・民族主義・文化主義」を掲げ、現在まで続いている。劉さんは記者かどうかわからない。
 は兄嫁で伯教の妻たか代。たか代と伯教は甲府メソジスト教会でたか代がまだ10代で山梨英和女学校のころ知り合っていた。たか代は現韮崎市穂坂町の大地主で南北朝以来の家柄の三枝善兵衛の長女として生まれたが、たか代16歳の時父を亡くし、弟が家督を継ぐ。たか代卒業の3月洗礼を受け4月から東京の東洋英和高等科に進学し、英語を磨く。その時の3年間の寮生活で村岡花子と共に学ぶ。卒業後はメソジストの宣教師の通訳などで長野の上田にも行っている。結婚は伯教30歳、たか代27歳で当時としては遅い結婚であった。しかし先に朝鮮に渡った伯教が迎えに来るように翌年甲府メソジスト教会で結婚し、2男2女に恵まれた。伯教が教員を辞めて陶磁器研究に専念出来たのもたか代が梨花学堂(現梨花女子高校)や淑明女学校に勤めて(当時100円位を得てと二女美恵子さん談)
生活を支えた。英語力は高く晩年でも英字新聞を読み、発音もコーヒーはカッフェであったと孫も語る。茶道に秀で日常そのものがお茶の世界であった。
 宗悦は1921年1月、『白樺』に「朝鮮民族美術館設立について」を発表し世間に宣言した。柳は朝鮮の芸術品は朝鮮の土地、朝鮮の建物の中に置くべきだという信念を持っていた。その準備を進めている様子がこの大正11年の日記からも読み取れる。

『浅川巧日記』を読み解く(3)
一月三日 晴、平穏
 十時半今村さん宅へ行つた。水谷川君の帰りを待つて柳さんと三人で李王家の博物館へ行つた。途中朝鮮人の古物屋と支那人の靴屋を見て廻つた。博物館では平田氏が動植物園秘園の案内をして呉れた。昌徳宮は景福宮と比べると高麗焼と李朝焼の味がある。李朝焼が顧みられない様に景福宮が破壊されつゝある。李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されないかもわからん。此等が敬意を以て迎へられる日でなければ半島に平和は来ないだらう。秘園の建物や自然の適当に保存される〔こ〕とを希ふと共に景福宮の破壊を防止し度いものだ。晩飯は支那料理で簡単に済した。それから又支那靴屋を漁つた。僕が昨年買つて今迄履いてゐる靴の形を探したが京城中約二十軒の靴屋に一足もなかつた。靴の形もこの二、三年間に随分変化した。西洋風を加味して日本人や朝鮮人に向くものになつた。漸次悪化してゐる。以前の形は美しい。
 帽子を一つ買つた。柳さんの宿で二時間ばかり話して十一時過ぎに帰宅。点剣は竹細工の米の石抜きを作つて待つてゐた。


 「李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されないかもわからん。此等が敬意を以て迎へられる日でなければ半島に平和は来ないだらう」
 この日記から李朝時代の民族性の美は朝鮮ではまだ一般的には理解されていないことがわかる。勿論、一部専門家はすでに研究をはじめて、発表もしていたようだが。

 1752年、官窯は、京畿道広州都南終面金沙里から分院里に移設された。この年以降、1883年に分院里窯が官釜から民窯に移管されるまでを、朝鮮時代後期と区分している。分院里窯では、多種多様な技巧をくりひろげた。
それは、おそらく乾隆ころの清朝文化の隆盛による刺激や、英祖・正祖という英邁な国王の治下に当っていたことも影響しているであろう。とくに、中国からのコバルト顔科の輸入が潤沢になったため、青花の製作が盛んになったことは注目される。陶磁の用途も、祭器・酒器・食器・文房具・化粧道具をはじめ、枕側板・燭台・日時計・はかり・植木鉢・喫煙具など多岐にわたっている。文様も多様になり、描法は繁縟さを加えることとなった。鉄砂・辰砂・瑠璃、あるいはそれらの併用も見られ、装飾的効果を狙うようになり、陶磁器の工芸品化が進められた。19世紀後半になると、アメリカ・フランス・日本など外国勢力の侵入もあって国政は乱れ、1883年、広州官窯最後の砦・分院里窯もついに民窯に移管され、500年にわたる栄光の歴史を閉じたのである。(『東洋陶磁の展開』伊藤郁太郎より)

 昌徳宮は景福宮と比べると高麗焼と李朝焼の味がある。李朝焼が顧みられない様に景福宮が破壊されつゝある。李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されないかもわからん。この日記から昌徳宮は正宮である景福宮に対し、離宮であるが、当時も今も宮殿内では、最も創建時の面影を残している宮殿で高麗焼(青磁)に譬えられている。李朝時代王宮の景福宮は、1395年から李氏朝鮮の正宮であったが、秀吉の侵略時焼失以来270年間昌徳宮を使い、再建されなかった。朝鮮王朝末期の1865年に高宗の父興宣大院君が再建し、1868年に国王の住居と政務を昌徳宮から移した。その後、1910年日本植民地統治以後王宮としての役割をなくした景福宮に代わり、朝鮮統治を後継した朝鮮総督府の庁舎の建設が景福宮敷地で1912年から始まり、1925年に完成した。王宮は日本植民地時代に敷地内の建物の多くが破却された。この様子を見た巧は日記の中で批判している。景福宮の破壊と李朝時代の芸術の味、民族性の美は当分理解されないと。
 現在は1865年当時に再建するための第二次復元事業が2011年から始まり2030年に終える予定である。第二次復元事業により379棟を復元し1865年再建当時の75%の水準を回復する。
 このようにして李朝時代の多種多様な陶磁器の歴史も李朝の幕が下ろされるとともに栄光の幕を閉じた。それを巧は「李朝時代藝術の味、李朝時代民族性の美は此処当分理解されない・・・此等が敬意を以て迎へられる日でなければ半島に平和は来ない」と巧らしい言葉で日記に書いている。

 「点剣は竹細工の米の石抜きを作つて待つてゐた」。
巧はこのようにして日常的に工芸品、日常用いる、工夫された道具を見て生活していたので「米の石抜き」はどう作るのかを知っていた。生きていたら『朝鮮の膳』以外の日常品の道具の本を残しただろうか。
『浅川巧日記』を読む解く(2)
一月二日
 朝九時に出て貞洞と今村さんへ廻つて柳、水谷川両氏と一緒に南大門駅へ行つた。家兄の帰京を見送つたのだ。其処で赤羽君と一緒になつて太平町から鐘路近傍の古物店、古本屋をのぞき廻つた。買つたものの主なるものは、真鍮食器、風呂敷模様、版木、二倫行実等で特に優秀のものも見当らない。晩飯には国一館で朝鮮料理を食べた。夜は赤羽君の動議で公会堂の活動写真を見た。東京動物園、ボートレースなどは無邪気で子供の喜びさうな無難なものだが下等な趣味のアメリカ辺から来た芝居には閉口した。如何なる点から考へても俗悪極まる劣等の趣味だ。アメリカ人の感心しさうなものだ。半途で退場した。
   西小門祉で皆に別て九時帰宅。
   晴れてゐて風もないが寒い日だつた。


1910(明治43)年、朝鮮王朝は最後には国名を大韓帝国と変えたが、大日本帝国に併合され、それまでの都漢城は京城と改称された。(今はソウル)
兄伯教が東京へ帰るのを見送った駅はその京城市の京城駅名でなく、南大門駅だ。1900(明治33)年に仁川と漢城を結ぶ線路が最初の鉄道会社(京仁鉄道)によって開通。最初は木造の平屋の小さな駅で、名前は京城駅で始まった。1906(明治39)年に京城~釜山の京釜線が開通すると「南大門停車場」と名前が変わり、1900(明治33)年7月8日「南大門(ナムデムン)駅」として開業。1923(大正12)年1月1日に「京城駅」と改称。この日記の年は1922年なので、南大門駅だった。
【参照地図:まだ京城の崇礼門につづく城壁も描かれている。南大門の正式な呼び名は「崇礼門」で南大門は通称。
 兄伯教は1919(大正8)年4月までは小学校の図工の訓導(正式な教諭のこと)であった。しかし、5月にはもともと1912年には入門していた東京の彫刻家新海竹太郎の内弟子になるため、上京した。もともと図工の教員であったが、教員は生活のため、彫刻家が第一希望であった。1914(大正3)年柳宗悦の我孫子の自宅に「李朝染付秋草文面取壺(瓶」を持って行ったのも柳宗悦が持っていたロダンの彫刻(或る小さな影)を見たいがためであった。
 1920(大正9)年<木履の人>が帝展で入選した時10月22日の『京城日報』紙面で妻たか代は「私の宅には只の一冊も児童教員の参考書などはございませんような始末」と話している。一方伯教は10月13日『京城日報』で「朝鮮人と内地人との親善は政治や政略では駄目だ、矢張り彼の芸術我の芸術で有無相通ずるのでなくては駄目だ」と述べている。しかし、伯教は1922(大正11)年4月には3年間の修業を終え朝鮮に戻ってしまった。理由は彫刻界の内紛に嫌気がさしたことや朝鮮でも美術展が開かれるようになったことなどだとの近親者の証言がある。そして陶磁器研究に没頭することに意味を見出したとも思われる。当時1000円もした陶磁器研究の古文書を携えて朝鮮に戻った。
 
 浅川巧は時に日記の中では激しい。見た映画が「下等な趣味のアメリカ辺から来た芝居には閉口した。如何なる点から考へても俗悪極まる劣等の趣味だ」と強烈に書く。
西小門祉は巧の家(阿峴北里)に帰るための京城市内と分岐点と地図を見るとわかる。

 『浅川巧日記』を読み解く1922(大正11)年正月より
 
 2016(平成28)年の元旦は天気晴朗、雲一つない冬晴れの穏やかな朝からはじまった。こんな元旦が穏やかな日であればあるほどこんな年はどんな年になるんだろうかと一抹の不安を感じないではいられない昨今だ。自然が穏やかであればあるほど不安を感じるって、昔はなかったように思える。私たちは2011年の3月11日以来そこはかとない不安を身に感じる。地球の変化は人間にとって災害の歴史だ。しかし地球上人間が住むようになり今や全国、いや世界にその規模の災害は衝撃を与える。人間が住んでいなかったり、報道されなかったりすれば、私たちは災害とは言わない。地形の変化は災害の連続で成り立ってきたということすら忘れてしまう。それに比べると人間の歴史は瞬きほどだ。しかし、その瞬きの中で人は2011年のことだってもうすでに風化させている。忘れかけている。勿論、被災地の方々にはこのような物言いは申し訳ない。言ってはいけないと思うが、被災地に住まない私たちはつい思ってしまうし、そう思う人は多数になっているようにも思う。
 94年前の1922(大正11)年1月1日から書き始めたと思える「浅川巧の日記」が残されている。大正11年の翌年12年には関東大震災が起こり、歴史時代の記録に残る災害であった。特に朝鮮人に対するニュースが段々伝わってくる一週間後の日記も残っている。浅川巧の憤りが素直に伝わってくる。その日記は奇跡のようないきさつで残った。
 まず一回目の奇跡は1945年の日本敗戦、韓国の光復時。その際、日本人の引き揚げがはじまった。検閲でとても日記など持って帰れない。時期にもよるが身まわり品も制限され、持てたとしても無事かどうかの保証はない。その時、伯教は自分を訪ねて、伯教の言い値で見立てた陶器(李朝十角面取祭器)を買った金成鎮(キム ソンジン)さんを見込んで、浅川巧の日記を託した。どのような世の中になるかわからない。先の見通せない混乱の時に、託すことで日記とデスマスクは生き延びると考えたのだろう。現に残った。
2回目は朝鮮戦争時だ。1950年6月25日早朝10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。金成鎮(キム ソンジン)さんはソウル(戦前の京城)が北朝鮮軍によって占領され、釜山目指して妻の安貞順さんと逃げた。その時背中のリュックの中に隠し持っていたのが「浅川巧の日記」だった。自分の財産を持てるだけ持って逃げたかっただろうに、自分の貴重品と同じ重みで「浅川巧日記」をリュックに入れていた。途中の太田(テジヨン)の駅前でその夜泊まる旅館を探しに行った夫の金さんを待っていた妻の安さんはリュックの中を調べられそうになった時、お得意の英語をまくし立てて難を逃れ日記を守ったと私に話してくれた。
 そして、1983(昭和58)年高崎宗司先生が森田芳夫さん(『朝鮮終戦の記録』著者)に連れられて日記を見せてもらいにソウルまで金成鎮さんに会いに行った時、日記のコピーを頼むと金成鎮さんはその時は断った。しかし、1996(平成8)年1月、浅川巧全集に載せたい旨を話しに行った時はしかるべき保存できるところがあれば寄付するとまで言われた。
 こうして「浅川巧日記」を私たちも読むことができるようになった。金さんが伯教から預かったものは1922(大正11)年の日記1年間と1923年の7月9月分それに「朝鮮少女」と名付けられた日記風随筆数点、伯教が描いた巧のデスマスクであった。
日記はこの1922年書き始めたので、一月というはじめにという項目を建てている。
この日記を終始読んで感じたことはこのように将来これを出版するか、参考資料に使うように書き留めている印象が強い。それになにより、この日記は原稿用紙に書かれていたのだ。だから伯教はこれは何としても残したかったんだろうと思う。

一月
 恩寵を感じつつ元気で大正十一年を迎えた。今年は出来るだけ日誌を書く様に努めやう。毎日書くための時間が祈りの心になれたら幸福を進めることに益あると思ふ。恵みを浄化することが出来ると思ふ。
 毎日の感謝と祈祷はこの日誌に書かれて行くであらう。省察、懺悔、慷慨、喜悦、悲歎、苦痛快楽の心をその都度写して置いて貧しい生活の記念にし私に慰めたり励ましたりし度い。目を覚まして祈らう。


と「はじめに」を書いて日記は一月一日から書きはじめている。
「恩寵を感じつつ」とキリスト者らしい巧の言葉からはじまっている日誌の冒頭は印象的であるとともにこの日誌の内容を表す象徴的な言葉と思う。「毎日書くための時間が祈りの心になれたら・・・恵みを浄化することが出来る」恩寵(神の恵)と祈祷この二つはキリスト者らしい巧の生きる姿勢を表していると思う。日記は慰めであり励ましである。目を覚まして祈ろう。今の私にとってもこのような姿勢で日記が書けたら自分にとって素晴らしい力になるだろうが・・・・・。
 
一月一日
 日本晴れで穏かで余り寒くもない。部屋を掃除してから政君に手紙を書いた。新年を迎へた悦びの心を伝へるために。午頃から江華の三枝君、家兄、水谷川君(学習院の學生)柳さん、赤羽君など集つて温突(おんどる)で話に花を咲かせた。
 秋以来美術館のために買つた物を皆に見せた。夕方皆揃つて貞洞へ行つた。途中古物屋二、三を見て廻つた。一緒に貞〔洞〕で晩飯をした。小場さんが来て慶州古王陵発掘の話をした。十一時頃帰宅ウヰスキー一杯飲んで寝た。


 政君は山梨県立農林高校で一学年下の浅川政歳のこと。政歳の姉で政歳が紹介して結婚した巧(18911.15生)と同年のみつゑ(1891.12.14生)とは1916(大正5)年に巧は結婚した。翌大正6年娘の園絵が生まれたが、みつゑ30歳の時、大正10年山梨県立病院で死去。そのため娘の園絵はみつゑの実家政歳の家で育てられていた。政歳への手紙は娘の安否を問うものであろう。
 家兄は浅川伯教のこと。終始日記では家兄と言って、伯教が最初に住んだ住所が貞洞だったので伯教のことは「家兄」か「貞洞」という言い方が多い。
「秋以来美術館のために買つた物を皆に見せた」これは浅川巧が1920(大正9)年初冬千葉県我孫子に住む柳宗悦を訪ね、「朝鮮民族美術館」設立が話し合われ、その為の準備として美術館に収めるための美術品集めを日々行わっていることが日記からわかる。
   
2015年12月17日(木)
 穏やかな師走の一日、もう今年も終わると思っても、思うだけでいつもと変わらない一日が暮れていく。甲斐駒も鳳凰も谷筋の雪が寒そうに、白峯は真っ白で雪の深さが偲ばれる。
 枯露柿作りも仕上がりつつある。寒さも増してきたのでかびる心配はなくなって、順調に柿の表面は乾いて粉も吹いてきた。そろそろこのくらいの柔らかさで食べてみようかなと思って食べればよいのだ。自分で作る特権はいつでも好きな時に好きな固さで食べられること。今年はいつも柔らかいのは好きでないからと食べなかった柔らかいのを食べてみて「ウゥン、おいしい!!」とその柔らかさのおいしさに目覚めた。年をとっても新しい発見はあるものだ。こんなことでも喜びだ。早速、母に食べさせ、叔母にも送った。

 浅川兄弟の故郷今の北杜市の鉄道は1904(明治37)年「韮崎」まで開通した。朝鮮では1902(明治35)年10月1日に京釜鉄道が完成し「釜山」から「京城」まで鉄道が通るようになった。
 浅川兄弟は鉄道に乗るために自宅のある北杜市高根町五丁田からこの韮崎まで歩いて行った。直線で15㌔ほど、3~4時間はかかる。昔の人は歩くしかないから、93歳の母の話でも良く歩いたようだ。
 1939(昭和14)年の『陶磁』に小山冨士夫(1900年生~1975年没、陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家)が「朝鮮旅行」を書いている。彼は京釜鉄道で釜山から特急「あかつき」に乗って441.7kmで京城(現ソウル)に着いた。「あかつき」は、1936(昭和11)年12月1日に設定された朝鮮鉄道唯一の特急列車であり、食堂車、展望車を連結した看板列車であった。下関で関釜連絡線に乗り換えれば、翌日早朝に釜山着、特急「あかつき」に乗車すれば午後2時5分に京城に着く。小山の紀行文によればその「あかつき」に乗車して見た景色を書いている。
 1916(大正5)年を皮切りに戦前21回も京城まで行った柳宗悦はその道中の様子を書いていない。小山冨士夫は釜山から京城までの様子を紀行文の名手らしく記している。小山の文章は朝鮮を今の韓国でいえば南東端の釜山から北西端のソウルまで、車中から見た朝鮮の車窓を『陶磁』に書いている。そして、伯教の家を訪ねた様子も記している。

 「ひさびさに朝鮮を旅した。かつて美しい秋の野を足にまかせて歩き廻ってから十年余りにもなろう。新緑の朝鮮には自ら新らしい感懐があり、寂落たる風物は今更に深く心を牽くものがあつた。~~~~~略~~~~
 関釜連絡の雑踏や検察の厳しさは時局の非常性を識らしめる四月二十九日早朝釜山に着き、特急「あかつき」で京城に向つた。釜山近くの山々にも、日本の山々にも既に日本では見られない特殊な風格がある。やがて、列車は洛東江に沿って走り出した。山湖のような静かな水面に蛾々たる遠山を映した寂寥たる景観が朝の清らかな空気の中に鮮人の貧しい生活が絵のやうに窓に描かれては消えて行く。やがて列車は洛東江に沿つて走りだした。山湖のような静かな水面に峨々たる遠山を映した寂蓼たる景観が、朝の清らかな空気の中に澄み切つてゐる。白衣を着た農夫の行く姿や、山懐にひそんでゐる小さな部落は、静かな景観を一層静かにする。
 突然ひろびろとした縁岸に巨然たる老樹があらはれた。ひろい流れと峨々たる遠山を背景として、寂然一幅の名画を見るやうである。梁楷の雪景山水を連想させるやうな粛乎たるものがあった。亀浦、忽禁、院里と汽車は美しい流れに沿って走り、三浪津を過ぎてから山地にかかつた。釜山から大田までの間は製陶に縁りある土地ばかりである。三島に金海、染山、密陽、昌寧、慶山、高霊、星州、金烏山、善山等の銘の款せられたものがあるが、汽車はこれら窯址群の間を縫ふやうにして進む。明治十年モールスが始めて日本に着いた時、横浜から東京までの汽車の窓から大森貝塚を発見した。これが我が国に於る最初の貝塚の発見だとのことであるが、愚鈍な私の眼力ではこの窯址群の間を走つてゐても、一つとしてそれらしいと思ふものさへ見出すことが出来なかつた。たゞ現在甕壷類を焼いてゐる雑器窯は、院里、新洞、若木、一山、金泉等の駅近くにあるのを車窓から目撃した。山地にかゝつてからは草津電鉄沿線のような高原地帯がつゞく。煙つた雑木の新緑の美しさや、思はぬ山中に子供の遊んでゐる姿や、沿線到るところにある土饅頭の墓の多いことなど見るものすべてに感興を牽かれてゐたが、単調な景色にも漸くうみ、長旅のつかれでうつらうつら居眠りを始めた。汽車が大田に停つて目が覚めた。広芒たる原野の先に鶏龍山の山塊が蜂ってゐる。かつて訪れた山麓の窯址群や東鶴寺のことなどを思いかへしてなつかしかった。大田を発してからは再び単調な山河が続き、単調な農村の生活が車窓に写る。京城に近づいて車内は漸くざわめきだした。前年永登浦の窯をたづねたことがあるが、このあたりの全く面目を一新した工業都市と化してゐるのには一驚した。漢江を距ててギザギザな北漢山の頂きが、天を噛むようにそゝり立つてゐるのが心を躍らせる。午後二時京城着。その日は所用を果して早く眠りに就いた。」

 小山は釜山を早朝発ち、「あかつき」に乗ると京城に予定通り着いている。紀行文は時刻表を見るようで面白い。浅川兄弟も柳宗悦も日本との行き来にこのような旅をしたのかと思える臨場感がある。
 
 「翌三十日朝は浅川さんを御たづねした。鮮人街の一隅にある浅川さんの家は如何にも浅川さんらしい御住いである。庭に雑然と焼損じの壷類のころがつているのも親はしいながめであつた。突然の御たづねを悦んで迎へられ、天井の低い和韓相半ばする客間に通された。室は朝鮮風だが、これに床があり、爐が切つてあるのは、よく浅川の心地を物語るもののようでもある。
 浅川さん兄弟ほど朝鮮を知り、朝鮮人を愛し、その民族性に深い共感を抱いてきた人は少いであろう。然し近年頭髪の目に立って白くなられたとともに、その心地は漸く日本的なものに鎮っておられるのではないかと感じた。永い歳月朝鮮の陶磁器を熱愛し、その美しさを高揚してこられた功績は今更謂うまでもない。又朝鮮のすみすみまで歩いて窯址の発見につとめられ、又わづかに命脈を伝える伝統的な窯の保存に意を用いられた業績は大きなものである。我々は浅川さんの業績が綴った著書となって永く残ることを心から願つてゐるが、浅川さんは近年文筆を折り、世捨人のやうに黙々と「茶」の一路にしづまつておられるやうである。然し独り浅川さんばかりでなく、反町さんにしても、鹽原さんにしても、田邊さんにしても、鑑賞陶磁の錚々たる蒐集家たちが、皆さん茶器蒐めに転向されてゐることは、今日形式化され、死灰化したやうに思はれる茶道が、深い日本人の精神、感覚から生れたものであり、誰もが最後に行き着く魂の安息所だからであらう。爐邊には李朝鉄砂の壷にひたひたと水が湛へられてゐる。眞白の器地に奔放な鉄絵草花文のある実に美しい李朝鉄砂だつた。奥様の御手前で薄茶一服を戴いた。近所で鮮人の大工が家を建てながら歌うなごやかな民話が、釜の音と和して言い難い恍惚さに誘はれる。帰途都合では一二の窯址を訪れたいとその明確な地点の教示を仰いでゐるところへ、伊東槇雄氏が来られ、続いて王子製紙の横井半三郎氏が来られた。」

 1931(昭6)年4月2日に浅川巧が40歳、急性肺炎で亡くなり、親族の嘆きは推し量ることは出来ない。妻咲が巧の前妻みつえの弟政歳に送った手紙にもそれは言葉として残っている。
 その後、京城に住み続けた伯教一家は前と同じような生活を続けながらも、時節柄
「文筆を折り、世捨人のやうに黙々と「茶」の一路にしづまつておられるやうである」。と小山は書いている。昭和14年にして朝鮮に住むということはこういうことかとこの後におこる真珠湾に始まる戦争をどのようにして耐えたのだろうか。
 朝鮮人街に住む浅川宅で、薄茶を飲みながら朝鮮人の大工の唄う民話のような歌、釜の音に恍惚となる小山の感性も好きだ。伯教夫婦は二人の男子を授かりながら一人は育たず、長男は30歳位で亡くなったとか。女子は長女も次女も長生きで、特に次女美恵子さんは今もお元気で娘さんご夫婦と暮らしている。
 浅川兄弟について、あの時代1912(大正2)年朝鮮に渡り、伯教は1919(大8)年まで公立小学校の訓導であった。そして、3・1独立運動がおこった3月に辞めている。その後は妻たか代が梨花学堂(現梨花女子高校)のような私立女学校で日本語や英語を教えながら生活を支えた。その後、1928(昭和3)年から「財団法人啓明会」から研究費をもらうまで主な収入はたか代が支えた。
 巧は林業試験所に勤めた。とはいえ総督府直属の農商工部山林課の雇員であった。巧は亡くなるまでそこに所属した。(亡くなる前、4/3日付けで辞めると巧本人が語っていたという人もいる)。
 浅川兄弟に対しての批判の一つに政治的には問題のあった朝鮮に住み、兄弟は批判的でなく、体制に順応し、植民地朝鮮を支配する側にいた等との批判だ。(巧日記の中では体制を批判している)
 巧は清涼里の官舎に住んだが、彼の死後の母娘は巧の保険で住宅を3軒建て、一軒に住み後を家作として貸し、生活費の足しにした。今もその内の一軒は日本家屋として残っている。
 伯教一家は朝鮮人街に住み、日本人と群れてはいない。1919(大正8)年三・一独立運動後の斉藤総督以来日本は「文化政策」に転じるが、その一環として毎5月に開かれた「朝鮮美術展覧会」には伯教は関わっている。昭和4年に書かれた本人自筆の履歴書にその関わりが残されている。
また、「朝鮮工芸展覧会図録」(朝鮮総督府後援)には伯教の「朝鮮陶磁について」の論文も載っている。
 伯教の考えは芸術なら国境を越え、政治を超えられる。芸術なら民族を超えられるという考えであった。浅川兄弟の朝鮮での生活、朝鮮の人々からの受け入れられようを見ていると、血を流し闘争し、批判し、自己を高みにおくのではなく、日常を共に過ごし、お互いに受け入れられる、受け入れる生活をすることも一つの闘争の姿ではないか。日本の植民地と言う特殊な地で生きたくないとその場を去り、居なければ免罪になるものでもない。総督府の手先であったという言い方の中に含まれるものから想定される批判は日本人なら誰も逃れることは出来ない。私たちは過去を一様に背負っているのだ。どの場に在っても「いかに生きるか」を今の私たちも問われている。浅川兄弟の「いかに生きたか」を検証しても、浅川巧日記を読んでも「あの時代だから仕方がない」という言い訳は滅多に出てこない。彼らを今の時代に置いても遜色ない。やっぱり、今の時代に出逢ってみたいと思う。
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