2016年1月6日(水)
2016『浅川巧日記』を読み解く5.6.
『浅川巧日記』を読む解く(5)(6)

一月五日 曇夕方雪、余り寒くない日
 六時に起きた。寝る時すべてを枕辺に揃へて置いたので二十分ばかりで身支度が出来た。七時前に柳さんの宿へ行つた。水谷川君と二人食事中であつた。僕も御馳走になつた。自分達一行三人は七時二十分南大門駅を発して八時すこし過に安養駅着。それから安養僑を渡つて安養寺跡を見て李朝白磁のかま跡二つから標本を沢山得て念仏庵へ行つて一休、午飯は三幕寺でした。寺で呉れたトンチミ〔水キムチ〕が美味かつた。[往きは]池氏の案内で陶土の出る処を見た。池氏は六十五の老体にも似ず元気に山を走り廻るのに感心した。厚意を謝して柳さんが毛皮の襟当を遣つたら随分喜んだ。白磁の鉄砂の染付をも[模]したかま[窯]もあつた。それから枯草刈の朝鮮人に案内を頼んで今迄知らなかつたかま[窯]跡を見た。雪が降り出したが寒くはない。山の線や山上からの遠望は随分よかつた。
 雪の道もよかつた。電車に新龍山から明治町まで乗つて又例の杏芳園で晩飯をした。  
西小門で二人に別れて九時頃帰宅、今夜はよく眠れさうだ。今日の遠足は収穫も多し愉快だつた。

 
 この日のことは浅川巧の本業の林業以外の著作でははじめての「窯跡めぐりの一日」に詳しい。第13年9月号『白樺』1922(大正11)年9月号の李朝陶磁器特集号と一般に言われている「李朝陶磁器の紹介」を公の雑誌ではじめて行った号だ。勿論、伯教はこの中に一番で「李朝陶器の価値及び変遷について」を書いている。
 「窯跡めぐりの一日」の紀行文本体には書いてないが、寝る時すべてを枕辺に揃へて置いたので二十分ばかりで身支度が出来た。巧の几帳面な性格が出ている。
 『白樺』の中では柳宗悦のことは民族美術館を進めるために来ていたYさんと紹介し、水谷川君は東京から学校の休暇を利用して朝鮮の美術を見に来ていたM君と紹介。柳宗悦のことはYさん、水谷川君は多分学生なんだろうM君だ。
 窯跡を尋ねたところのことは「釜跡めぐりの一日」を読んでほしいが、「安養駅の近くの二三軒ある亜鉛葺きの日本家は、朝鮮の冬にはふさわしくない。自然に調和しないのみか、実用から見ても非衛生的だ。貧相で、寒そうで、みじめに見える。おちつきがなくて、住んで居る主人は金が溜まったら日本に引き上げるのだ。と言う様な感じがする。~~~安養橋は安養川に掛けられた石橋だが、側に橋の名を記した石碑がある。橋は見事に出来ていて、そこにも昔の人の忠実な仕事の跡が、その儘に残って居る」。と書いているのが印象に残る。印象の悪いものはそこに住む人の貧相な生き様まで見て取っているが、石橋のようにいつ作られたかわからないが、良いものは仕事の跡まで読み取って良いと書いている。これらは日記には出てこない。でも、巧の「眼」が良く出ている。巧が「釜跡めぐりの一日」を書いたのも柳宗悦が『白樺』で李朝陶磁器の特集号をする意図があって書く要請を巧にしたものと思われる。巧はこの紀行文もいい。
 
 日記では夜9時頃帰宅とあるが、紀行文では「阿峴に帰ったのは十一時過ぎだった」と書いて終わっている。一日の行動を紀行文で見ると紀行文の方十一時過ぎが本当であったろう。

一月六日 晴、昨日降つた雪はあらましとけた。
 朝から午後一時迄かゝつて「松脂採取要領」の原稿を浄書した。それから総督府の博物館へ行つた。柳、小場、水谷川、金、卞、呉諸兄と一緒に博物館を見た。小場さんは此の頃慶州から発掘した金冠、玉類其の他の説明をして呉れた。皆が慶会楼の池で氷辷りをして打興じた。それから柳、水谷川両兄と三人で積善洞附近の古物屋を漁り廻つて葡萄の画の屏風や焼物数点を買つた。晩飯は例に依つて三人で鐘路鐘の裏の朝鮮の立呑屋でソーメンを食べて済した。帰途柳さんの宿へ寄つて二時間ばかり話した。
 風呂から上つて日誌を書いてゐる時、水谷川君の乗つた筈の平壌行の汽車が通つたから
窓を開けてランプを出して振り廻して信号した。気がついたかどうか。園ゑの感冒癒つ
たかどうか便りがないから少し心配だ。

大正10年朝鮮総督府作成京城府地図一部

阿峴北里にあった林業試験場(京畿道高陽郡延禧面阿峴北里(現ソウル特別市酉大門区北阿峴洞)の近くの日本家屋に住んでいた浅川巧の住まいを大正10年の地図で探ってみた。水谷川君の乗ったはずの列車にランプを出して振り回して、信号して、気づく範囲に住んでいたのであろう。今とは雲泥の差の静かな田園地帯だっただろう。
 林業試験場が出来たのは1913年4月で、この時札幌農学校を出て、俊秀の石戸谷勉が技手としてここを担う。開所翌1914年就職した巧は単なる雇員だったが、1917年には巧と共著で『大日本山林会報』6月号に「テウセンカラマツの養苗成功を報ず」と当時鉄道の枕木として需要の大きかった朝鮮からまつ養苗成功を書いている。
 林業試験所は1921年には阿峴北里から京城市外清涼里、つまり京城の西から東へ移転している。その為、巧も住まいを清涼里に移したことが2月25日の『浅川巧日記』に載っている。
 
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