甲府駅にほど近い愛宕山の紅葉の最盛期は近年、12月に入ってからだ。毎年繰り返されるこの四季の移ろいも今年はどうかと気になる。今日11月14日は朝から雨模様で天気が悪い。高い南アルプスの山や富士山では今このとき、雪が降っている事だろうか。晴れたら雪景色の山々が見えるだろう。甲府は「山の都」と言われながらこの素晴らしい山々の持つ景色がスイスの景色に匹敵する美しさを持っていることを私たちはどれだけ自覚しているだろうか。この風景にほれ込んでいる人々も知っているが、日々は何事もなく、この景色も大したことないように過ぎていく。
 その後、晴れて南アルプスの稜線がくっきり見えた時驚いた。この11月なのに3000mの山なみも青山のまま。えぇあの稜線も雨だったのか。今年の11月の暖かさは枯露柿作りに大きな影響を与えているようだ。専門の業者さんでもカビが来て全滅ということも地方新聞に出ていた。35°の焼酎を霧吹きでやるといいとか、扇風機で風を送るといいとかも聞くが、家では今のところ安泰で、夜もベランダ部屋のガラス戸は網戸だけにして閉めないようにしている。
 夜もそれほど寒くないので、星を見ていると野尻抱影(のじり ほうえい)のことを思いだした。彼は1906(明治39)年早稲田大学文学部英文学科卒業。学生時代、小泉八雲の指導を受けた。1907(明治40)年に甲府市の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の英語教師となり、1912(明治45)年まで6年を甲府で過ごす。まだ甲府城内に校舎が在った頃だ。結婚を機に東京の麻布中学校に転任。彼は星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多いという。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。収集した情報を『日本の星』および『日本星名辞典』等に集大成して出版し、晩年まで改訂を続けた。1930年(昭和5)年、冥王星が発見される。欧米では Pluto と命名されたが、野尻の提案で和名は冥王星となる。この名は現在、中国等、東アジアで共通に使用されているという。弟は作家の大佛次郎。妻は宗教家・教育者・言語学者として知られる甲府中学校長の大島正健の三女・麗。
 彼の著書に『山・星・雲』がある。これは野尻抱影没後出版された未刊随想で、甲府時代の思い出を随想している。巻頭の-甲斐の春-では1906(明治39)年浅川伯教が師範学校を卒業した、そのころの交流が描かれている。
「わたしは師範訓導の浅川伯教君と、南の市川大門町の寺を訪ねたことがあるが、鉄道馬車から、農鳥と間ノ岳が、刈株の黒く残る水田にはっきりと白く映っているのを見て、春が後もどりしたような感じがした。
 また、そこまで下ると、間ノ岳の北に甲府からは見えない北岳が、まだまっ白にそそり立っていた。「シューマイみたいな山だ」と言って笑ったのだが、次いで「北に遠ざかりて、雪白き山あり、問へば甲斐の白根と答ふ」という古文は、この孤高な山にこそぴったりすると思った。
(途中略)
 こういう春のあいだにも、山国のことで、急に冴え返る日がある。これを土地では昔から「木の股裂け」と言っていた。陽気でぬくまっていた樹々が、気まぐれの寒気に凍って、枝の股がひび割れる意味である。初めてこれを聞いた時、季語としてすばらしいなと思った。それで、庫郎(菊池)君や浅川(伯教)君、後の自由律の秋山秋紅蓼君、そして先輩の飯田蛇笏君をも時どき迎えていたカフフ吟社で、「木の股裂け」を季語として中央俳壇へ提案してはどうかと言った記憶もある」と。同じ甲府で師範の訓導であった伯教とは東京から甲府中学へ赴任してきた野尻抱影と出会って仲良くなったのだろう。

 浅川伯教は父方のおじいさん(俳号6世蕪庵四友)の影響か、俳句や連歌に秀でていた。特に母方の祖父千野真道が亡くなる日に、危篤と聞いて集まった人に「歌を詠め」と言い「全部の人の歌を一枚一枚見て、この中で伯教のが一番良いと言って死んだ」というような人であった。
 伯教が戦後、京城から日本に戻って来て、昔の交友関係が復活したようだ。かつて同僚であった伊藤生更(アララギ派の歌人。短歌雑誌「美知思波」を昭和10年創刊。2014年(平成26年)80周年を迎えた)宛てに短歌を書いて添削をお願いした。その実物も拝見した。伯教の短歌を私は好きだ。

皆が帰国を急ぐ朝鮮にて、朝鮮民族美術館や陶磁研究整理のため残った1945(昭和20)年暮れごろ
 今日も亦茶碗と一日暮しけり かよわき者の 美しきかな
 オンドルの煙の波に沈む町 つづみ長閑けき アリランの唄

戦後千葉黒砂にて      
 秋雨の漏りのかなしき 庵なれど 空も我がもの 海も我がもの

京城から友人安倍能成が帰国する際の送別会で詠んだ短歌
 村々は夕げのもやに沈みゆき 水広山に さし登る月

戦後の短歌
焼跡に煙突黒く月澄みて 秋のあわれを 鳴く虫もなし
やぶれても国なつかしき汽車の窓 山のみどりに 海の紺碧
月見草提灯花におぜん花 庭に咲かせて 故里を偲ぶ
秋風に羽織はをれば老父くさし ひたに偲びぬ 吾祖父のこと
一人居り鏡の前に顔みれば このかおにまで よくも生きしか
如月の炭を貰いにはるばると いくつもくぐる 甲斐のトンネル
西山の奥に世界のあるも知らず 吾が育ちたる 逸見の台かな
昔見し浅尾大根の浅尾原 トタンの屋根が 今は目につく
頭から膝までみそをなすられて みそなめ地蔵 おわしますなり
柳沢黒沢新ごく牧の原 昔先生を していた所なり
八ヶ岳麓の駅にをりも得ず はるかに拝む 故里の暮
春はよし夏も亦よし秋もよし 冬はなおよし 有難き国
破れ茶わん吾身のさがによく似たり いたわられつつ 抹茶頂く

籠り居れば祖国は日々に遠ざかり あれたきままの冬の風かな 伯教
北の方(かた)より駒鳳凰農鳥と 我が目を移す雪の高山 生更
2015年10月15日(木)
 10月の三連休に「尾瀬」を歩いてきた。最初に尾瀬に行ったのは1955(昭和30)年今から60年前だ。尾瀬で一緒になった人にこう言うと、皆一様に「ウゥンッ」と訝しげな顔をして、「あんた何歳だ?!」という顔をする。まぁそれはそれとして、その後大学の時50年前行った時は6月水芭蕉の咲くとき行った。なのに、体力的に力があり、時の勢いで行ったのは全然覚えていない。60年前の子どもの時行ったときは、大人に交って楽しかった思い出で、私の山好きの原点になった。あのころは夢のような尾瀬だった。池塘に浮かぶ浮島に乗って叔父と遊んだ。今はもちろんこんな遊びはできない。浮島も少なくなった。昔の木道は歩きにくい湿原のためにあったが、今は木道しか歩いてはいけない。人間のほうが木道と山小屋しか自由に動けない。他は禁止だ。サファリのように自然界に人間の方が閉じ込められたかたちだ。人間はおしっこもままならない。WCとある所しかできない。それもトイレを使ったら浄化槽維持のためチップ代を100~200円出す。人間がのさばり過ぎてきた結果の象徴のような場所が尾瀬だ。これから私たちはどうなってしまうのだろうか。
 浅川兄弟は若い時、まだ朝鮮に行く前から雑誌『白樺』を読んでいた。『白樺』は、1910(明治43)年創刊の同人誌で、学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。白樺同人たち(武者小路実篤・有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦等)が例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである。そういう意味で若かった浅川兄弟は現北杜市高根の田舎に住みながら時代を敏感に感じ取っていた。浅川伯教は甲府の師範学校へ入って、図画工作の教員になった。教員は生活のため。巧が生まれる前に父は死に、7歳下の弟、3歳下の妹、それに母がいた。当時戸主制度下の長男としては家族を養っていかなければならない。伯教は『白樺』でロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術を知った。その中で特にロダンに傾倒した。それで、1912(明治45)年7月には彫刻家新海竹太郎に入門。その芸術的才能は父方の祖父(俳号を6世蕪庵と言い、近所の熱田神宮境内に句碑が残る)や母方の祖父(千野真道と言い、1966(昭和41)年逝って、60年後「医神両全」のタイトルで顕彰碑が建立)から受け継いだと思う。兄弟は朝鮮の田舎の旅に出たとき、宿で何時も故郷を話題に登らせ、故郷の思い出に浸った。幼い日の面白い田舎の行事や周囲の良き人たちの話を誰彼となく次から次へと浮かぶその追憶を語り更かした。そして祖父のことに話題が入ると「良いおじいさんだったなぁ」と思わず言って話を結ぶ。おじいさんの性質を最も良く受けているのが巧であったと伯教は言う。
 最近の世界は今までの直線型で、最終的に作られたものはゴミとして消費してしまう経済から、循環型の経済に移行しないと有限なものは枯渇してしまうと言う。今、経済が循環型になっていくということは浅川兄弟の祖父の時代のような価値観に戻るということだ。おじいさんたちは何一つ無駄にしないが、欲もかかない。俳句で得た謝礼金は見もしないで入れ物の中に溜め込み、下から使っていく。亡くなった時そこにはもう使われなくなった20銭札もあったという。学問を修め、地域の人のために尽くし、和歌俳句に親しみ、宗教を重んじる人であった。趣味豊かに暮らし、植物にも関心が深くと。巧も小さい時、山から松の苗を取ってきて植えるような子だったという。巧は『白樺』からトルストイを知り、トルストイアンでもあった。新しい時代の息吹を伝えた『白樺』から、新しい時代に生きる糧や芸術を知った浅川兄弟の生きた時代は、今は遠い過去の時代でもある。
 人生はやり直せないけれど、かつて訪ねたその地は訪ねられる。私が子ども時代行った同じ尾瀬ではなかったけれど、人生もそうなのだ。私たちも北杜市高根町の生家周辺を訪ねるとどんなにおじいさんたちが二人の生育に影響を与えたかを人物と自然環境で感じることが出来る。『巧日記』を韓国語に翻訳した金順姫(きむすんひ)氏は翻訳するにあたって、巧の発想や感情を現地に行って感じないと表現できないと、実際韓国からやって来た。
 巨視的に見て世界も、幸せとは何かも、自然保全も根は一つ。浅川兄弟が培ってきた価値観、それは明治の田舎のおじいさんたちが持っていた価値観、ほどほどの幸せで生きること。名を揚げ、富を蓄積し、上から下への目線でない生き方。新しい時代の息吹を伝えた『白樺』から影響を受けた浅川兄弟も結局、幸せは『青い鳥』のように身近にあった。
 家庭に在っては鉄砲玉のように戻って来ず、陶磁器研究に専念していた伯教でさえ、良き父であり、朝鮮人街に住んだ伯教宅には朝鮮人や教会の人など常に人の集うあたたかい家庭であった。家族思いで誰にも優しかった巧が40歳で亡くなった時、妻の咲はどんなに嘆き悲しんだことか。叔父政歳宛て手紙を読み返すたび私はいつもジーンとくる。
 尾瀬からの帰り、会津高原尾瀬口駅までのバスは2時間近く東北の真盛りの紅葉のトンネル道を走り、桧枝岐村など福島の村々を抜けて走った。私は地方で生きている人々の家々を見た。コンビニなどは一軒もなかった。
 そして、尾瀬に象徴される循環型、リサイクル社会に私たちも協力しないと生きていけない社会に移行しつつあることを思った。浅川兄弟のように田舎で育ち、田舎を持つ幸せもバスに揺られながら思った。都会ばかりが膨らんでいく社会、田舎はどこも過疎になりつつある社会、これからの日本経済は循環型のリサイクル経済を目指すと言いつつ、人口増についても循環型の社会を目指さないといけない。過疎と限界集落に若い人たちを呼び込み、動態人口に於いても循環型になって行く手立てはないものか。今、若い人たちに影響を与える『白樺』のような雑誌はない。時代を象徴し、影響を与えるような雑誌はつくられないだろうか。そこで、これからの社会を読み解き、生活を生み出す仕事を創造していく若者は現われないものだろうか。いいや最近のニュースで、こういう若者を紹介しているのを見た。私は新潟で無農薬でお米を作っている一家を知っている。家までも手作りで作る。つくれるものは自分でドンドン作ってしまう。もっと別の時に紹介したい。新しい時代の変化は最初、徐々に現われるものだ。私たちは難しい時代だが、新しい時代を生きているのだと実感した尾瀬山行だった。 
2015年10月8日(木)
 先日のシルバーウィークの時、近江八幡・今津に行ってきた。目的はウィリアム・ヴォーリズの建築を学んで来たいの一点で、一途な思いで出かけた。一日地元の建築家でヴォーリズ研究家、一粒運動の推進者でありヴォーリズに関して様々な活躍をしている方に案内していただいた。地元には地元に根を下ろした人、またその作品を大切にしている人がいる。
 私はヴォーリズに関して、最近まで名前と建築家程度しか知らなかった。近江兄弟社やメンソレータムはそれとは別に知っていた。でも、それらがヴォーリズと言う一人の人を介して繋がっていたことを全く知らなかった。それに近所の宣教師館をヴォーリズと言う人が建てたということは聞いていたが、あまり関心を持っていなかった。そのヴォーリズについて、ネットと本で知って、「びっくりしたなぁ」と言うのが本音。
 ヴォーリズ本人が書いた伝記の中、印象的なのは1905(明治38)年2月2日、日本の寒い冬の真っただ中アメリカからたった一人で24歳の時この近江八幡にやってきたこと。それも宣教師団体の派遣ではなく、たった一人で伝手は近江八幡の商業学校の英語教師としてだけ。駅に英語のできる同僚が迎えに来てくれなかったらどうしたことであろうか。日本語も全く分からない状況で、英語教師はお金のないアメリカの若者が唯一出来る生活の手段。ここまで彼を突き動かしたのはキリスト教を伝道したい。それも宣教師と言う訓練も資格もない平信徒で。この情熱は信仰だけで強くなれるんだろうか。ところが、二日目に奇跡が起こった。奇跡と言うのは本人が望んでいないことだったら奇跡にはならない。夕方、宮本文次郎と言う青年が訪ねて来た。彼はいきなり「あなたはクリスチャンですか」と質問した。日本に来る目的の「一人でもクリスチャンを!」と言う願いが最初の二晩目にかなえられたのだ。一年や二年はかかると祈っていたことが最初から与えられた。こうしてヴォーリズのネットワークはキリスト教を柱に宣教と生活の手段として、大好きな建築設計の仕事・事業としてメンソレータムの販売などを後の会社名「近江兄弟社」を中心にして拡大していった。兄弟社は実の兄弟の会社ではなく、キリスト教的考えの人間兄弟姉妹の兄弟だったことも分かった。ヴォーリズは事業を大きく出来たが、自らを売り込むことはしなかった。ヴォーリズの名前は全国に知れ渡ってはいない。少なくとも山梨までは。
 浅川兄弟のことも地元は今でこそ知っていて、山梨県近代50傑に選ばれ、県庁別館(昭和5年の重厚な内装を持ち、最近創建時に甦った。甲府空襲の際、米軍は占領後を計って県庁と駅は焼かない方針の成果として残った)の中に近代人物館が設けられ展示はされている。映画にもなったが、全国的知名度は薄いと思う。
 浅川巧は40歳、肺炎で急死した。しかし、日記を書いていたので、兄伯教は敗戦後朝鮮から引き揚げざるを得ないとき、没収の憂き目にあいそうな巧の書いた日記を、自分の自宅に白磁を買いに来た金成鎮(きむそんじん)と言う人物を見込んで託す。彼は朝鮮人の中では有名な浅川巧を尊敬していたので、驚いた。朝鮮戦争の時は、日記を妻と釜山まで逃げる際、自分たちの貴重品と共にリュックに隠して守った。その存在を知った高崎宗司氏(津田塾大学名誉教授『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』の著者、故郷の親戚さえ知らなかった兄弟の足跡を詳しく調査した)が一度は断られながら、公共の場があるなら寄付するという言葉を一つの契機に「浅川伯教・巧資料館」が建てられ、今はそこに保管されている。『巧日記』としても出版もされている。巧の急死を電報で知った友人の柳宗悦(民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者、「日本民藝館」創設)は「あんなに朝鮮のことを内からわかっていた人を私は他に知らない。本当に朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうして本当に朝鮮人から愛されたのである」「取り返しのつかない損失である」と嘆いた。高崎宗司氏は柳宗悦があんなに褒めちぎっている浅川巧とはどういう人物だろうかと。柳があんなに褒めちぎっているのに伝記さえない人物、誰も取り組んでいない人物として調査した。鶴見俊輔らの『思想の科学』に勤務していた時で、浅川兄弟の連載を勧められた。若く無名の高崎宗司氏を認め、書く機会をつくり、適切な助言を与え、育ててもらった。「鶴見俊輔さんは名編集者であり、名教師であった」と2015年7月20日逝去に際し『民藝10月号』に追悼している。草風館の主宰者内川千裕がその連載に目を留め、出版した。映画(実名を使いながら内容はドキュメントではない)も上映された今だけれど、浅川兄弟は全国的にどのくらい知名度があるか、わからない。
 ヴォーリズは「他人が書くくらいなら自分が書く」として最晩年『失敗者の自叙伝』を残し、事実に対し自らの真情も吐露している。それも死後、昭和45年初版発行された。昭和16年帰化後の名前「一柳米来留(ひとつやなぎめりる)」著者名で、近江兄弟社版権所有者として。
 ここで、知名度競争しても仕方がない。浅川兄弟のことはよく知っている地元の人間も、滋賀県から離れた山梨に於いてはヴォーリズのことはほとんど知らないと思う。キリスト教を通してヴォーリズに関心を持った私は、その人間性にある共通点に心を奪われた。功名心も私腹欲も無く、ただひたすら自分の関心あること、好きなことを追い求め、研究した。仕事とした。彼らは共に、仕事、作品、著作、自伝や思いがけず日記も残したが、83歳で亡くなったヴォーリズは最晩年国からの黄授褒章や死後勲三等瑞宝賞を受けた。兄弟はもちろん何もない。しかし、当時の朝鮮人には心に残る人物として慕われた。安倍能成(漱石門下・京城帝大・旧 一高・文部大臣・国立博物館長・学習院長)も「正しい 義務を重んじる、人を畏れずして神のみを畏れる、独立自由な、しかも頭脳が勝れ、鑑賞力に富んだ人は、実に有り難い人である。巧さんは官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで堂々と生き抜いた」「朝鮮のために大なる損失であることは言うまでもないが、私はさらにこれを大きく人類の損失だというのに躊躇しない」と残した。それは昭和9年頃、旧制中学用国語教科書に『人間の価値』として掲載された。
 ヴォーリズも多くの教え子たちが共同事業者となり、その会社ではクリスチャンになると給料が高くなった。子供が増えると増えた人数分給料が上がった。教え子吉田悦蔵著『湖畔聖話』(大正15年初版)の中で「バイブル(聖書)を教えた罪で学校を免職になりました。学生の寄宿舎の食費はいくらですか」と問われ、「4円50銭です」と答えるとヴォーリズは「神よ私に毎月4円50銭だけ下さい」と声に出して祈った。それを聞いた吉田悦蔵は「親譲りの財産をこの異人さんの事業に投げ込み、共同の財布で20年近く暮らしてきました」と書き残している。事業が成功しても自分の持ち分は食費など必要な分だけと言う生活は周りの人たちから精神と行いと一致していると信頼を生み出していった。
 賀川豊彦(キリスト教社会運動家、社会改良家。「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。平和学園の創始者)は吉田悦蔵著『近江の兄弟等』の「趹」にヴォーリズは「いついかなる時でも快活で一生懸命である。天才である。彼は日本のために天才を自ら殺したのだ」と。
 今の私はこの方たちに逢ってみたい。話をしてみたい思いでいっぱいだ。
 『彼は明確な頭脳と温かい眼との所有者であった。しかしそれらを越えて私を引き付けたのは、その誠実な魂であった。彼程…自分を捨てる事のできる人は世に多くはない』柳宗悦
2015年9月23日(水)
 元号は混乱のもとで最近は平成を個人的には全然使っていない。それで、今年は平成何年かいつもわからなくなっている。しかし江戸時代が終わって、明治、大正、昭和と歴史が経ってみると、西暦ではわからない元号の時代の空気の違いを感じるのである。
 明治時代に怒涛の様にやってきた西洋の波を日本人は「人」を通して受け入れてきたように思う。また、逆にやって来た西洋側の人間で有名になった一人に小泉八雲 (Patrick Lafcadio Hearn、1850年6月27日生)がいる。彼は明治23年(1890)39歳のとき記者として来日。その後まもなく、島根県松江市の尋常中学校及び師範学校の英語教師となる。ここでは、松江の風物、人情が大変気にいった。そして、武家の娘小泉セツと結婚したが、冬の寒さと大雪に閉口し、1年3ヶ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ移り、さらに神戸クロニクル社、帝国大学文科大学(東大)、早稲田大学に勤務した。日本の伝統的精神や文化に興味をもった八雲は、多くの作品を著し、日本を広く世界に紹介した。明治29(1896)年に日本国籍を取得し、島根の旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に因み「小泉八雲」と名乗る。 明治37(1904)年9月26日、狭心症のため54歳で逝去した。八雲は明治と言う時代の日本には普通にあった日本情緒を特別なものとして日本人にも認識させた。
 浅川伯教・巧も朝鮮に行き、当時は色濃く残っていた李朝時代につづく生活(白磁のような陶磁器や朝鮮の人たちが普通に食べていた食事など)を、自分たちの日常の中に取り入れ、それを愛した。植民地の支配者側にいた日本人は朝鮮に行っても日本式生活様式(食事・住居・服装・言語など)を崩そうとしなかった中で、巧はいち早く朝鮮語を覚え、現地人のように駆使し、現地の寒さの中では暖かい朝鮮服を着て過ごした。その中でも朝鮮の人夫たちが朝鮮カラマツなどは冬の寒さに充てると芽吹くということを朝鮮語で話しているのを学び「露天埋蔵法」としてその成果を勤め先の朝鮮総督府林業技手として発表した。
 伯教は日本人の中で茶碗は、室町時代前半まで、中国産の「唐物」が最高と考えられてきたが、その後茶人たちが朝鮮の「井戸の茶碗」と名付けられたものを愛したことから、そのルーツを調べようとした。これは民衆の安物の量産品で、釉薬のかけ方も乱暴だが、形は素晴らしいものであった。意図せずに生まれたその姿を茶人たちは「わび」の美として評価した。中でも最高のものは国宝「喜左衛門井戸」(朝鮮・李朝時代16世紀)で、それはどこで生まれたのか、作陶者は名もなき陶工であったとしても、土はどこであったのか、窯跡を自分で探し、朝鮮半島700か所をも捜し歩いた。このように朝鮮の人も認識していなかった日本の茶文化から認められた陶磁器のルーツを探す、地味で報いの少ない研究に彼は没頭した。
 浅川兄弟は自分たちの感性で朝鮮の生活、研究を楽しんで過ごした。ラフカディオハーンは日本の生活の中で日本人の発する生活音やたたづまいを自分の五感で察知し、それを文学の世界で表現した。ハーンは明治と言う時代の日本を表現した。
 浅川兄弟は日本で育つ中で雑誌『白樺』に触れ、キリスト教の教会に所属し、キリスト者となってその精神・信仰で生きた。それらは明治から大正時代がかもし出す、若者たちが醸成した時代の風潮であったかもしれない。それらを花開かせたのが朝鮮と言う場であり、李朝文化への傾倒であった。なかでも朝鮮の工芸を継承し、本にして残し(『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』『釜山窯と対州窯』『李朝の陶磁』など)、今の韓国人に引き継いでいる。
 このようにして、お互いの文化、時代の持つ特色をみごとに掌握し、受容している。ハーンも浅川兄弟も国籍を超え、相手国の文化・生活を愛し、今も愛されている。
2015年9月14日(月)
 異文化交流に関心がある。日本が明治を迎えると同時に欧米圏の、特に宣教師たちはキリスト教を伝える目的で日本に進出して来た。宣教師の思いは実に純粋であった。世界を見ると、政治家はその彼らを利用して政治的目論見を持って植民地化などの侵略を果たした国、地域もあった。日本は宣教師に関係なく中国・台湾・韓国を植民地化した。日本は他国を植民地化したが自国はされなかった。(こんなに簡単に言うべきことではないが)
 私が勤めた学校は1889(明治22)年創立された女子校であった。2015年で126年経つ。創立には地元の若者たち(代表者は25歳) が地元で資金を集め、女子の学校を建てるべく奔走した。しかし教育を担うべき教師をカナダの宣教師会に派遣を頼んだ。カナダの宣教師会は25歳の教育と訓練を受けた女性を派遣してきた。
 カナダの宣教師の教育を受けた女子校生は学校教育の中でどのように異文化を受け入れていったのだろうか。「欧米かぶれ」と揶揄されながらも異文化をどのように受容していったのだろうか。
 恵まれた境遇にあった女子とはいえ女子蔑視のまだまだ強かった明治の時代。家の都合で遅刻をやむなくしても弁明ができない。ただメソメソ泣いて窮状を凌ごうとする。そんな女の子に対し、宣教師たちは近代に生きる女子は時間をきっちり守ること。すぐ泣かないこと。規則正しく、片付けをきちんとして生活する。廊下を走らず、大きい声で話さない。昨2014年朝ドラの「アンと花子」の村岡(安中)花子が受けた東京の東洋英和の教育もまさしくそのような教育で、花子の時代の校長ブラックモア(ドラマでは別名。山梨英和で二代目の校長でもあった)は厳しくお仕置きをする規則の権化のような教育を信条としていた。こういう教育が昨年は全国に知らされた。そして、英語教育は宣教師譲りの発音で、ネイティブのように教育された。
 浅川伯教の糟糠の妻たか代はそんな山梨英和を1905(明治38)年卒業し、東洋英和の高等科(3年)に進んでさらに勉学した。そこではブラックモア校長の下、村岡(安中)花子と3年間一緒の寄宿舎生活を過ごし、先に卒業している。村岡(安中)花子は卒業後、山梨英和の教員として5年間勤めた。
 浅川たか代は日本の植民地化朝鮮の京城(ソウル)で、夫伯教が鉄砲玉のように陶磁器研究(窯跡や陶片の採集)に出かけている間を今の梨花女子高校などで教員をしつつ支えた。娘さんの話では100円位の給与で、子どもたちを育てたという。当時内地の給与でも30円40円位だったそうなので、朝鮮での給与は恵まれていた。それも教育を受けていたから出来たこと。たか代は1970(昭和45)年1月83歳で亡くなるまで、コーヒーはカッフェとネイティブ発音であったと聞く。伯教と揃ってクリスチャンであり、聖書を読むこととお茶のお点前を日常的にたしなむ生活で晩年を過ごした。お茶を楽しむことはお手前をするときだけでなく、お茶の作法で生きること、生活することが日常であった。出かける時、三つ指ついて夫伯教へのあいさつなど、教育の力が生活の背骨になっていた。西洋の宣教師の先生方の信仰と教育の姿勢、近代女性として生きる生活の姿勢、聖書に聴くことで信仰を深め、実践する。このように欧米文化をもたらした宣教師の姿勢を受容し、一生を貫いて行った浅川たか代を異文化の賜物を受容して生きた女性として、私は尊敬している。
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