『浅川巧日記』を読み解く1922(大正11)年正月より
 
 2016(平成28)年の元旦は天気晴朗、雲一つない冬晴れの穏やかな朝からはじまった。こんな元旦が穏やかな日であればあるほどこんな年はどんな年になるんだろうかと一抹の不安を感じないではいられない昨今だ。自然が穏やかであればあるほど不安を感じるって、昔はなかったように思える。私たちは2011年の3月11日以来そこはかとない不安を身に感じる。地球の変化は人間にとって災害の歴史だ。しかし地球上人間が住むようになり今や全国、いや世界にその規模の災害は衝撃を与える。人間が住んでいなかったり、報道されなかったりすれば、私たちは災害とは言わない。地形の変化は災害の連続で成り立ってきたということすら忘れてしまう。それに比べると人間の歴史は瞬きほどだ。しかし、その瞬きの中で人は2011年のことだってもうすでに風化させている。忘れかけている。勿論、被災地の方々にはこのような物言いは申し訳ない。言ってはいけないと思うが、被災地に住まない私たちはつい思ってしまうし、そう思う人は多数になっているようにも思う。
 94年前の1922(大正11)年1月1日から書き始めたと思える「浅川巧の日記」が残されている。大正11年の翌年12年には関東大震災が起こり、歴史時代の記録に残る災害であった。特に朝鮮人に対するニュースが段々伝わってくる一週間後の日記も残っている。浅川巧の憤りが素直に伝わってくる。その日記は奇跡のようないきさつで残った。
 まず一回目の奇跡は1945年の日本敗戦、韓国の光復時。その際、日本人の引き揚げがはじまった。検閲でとても日記など持って帰れない。時期にもよるが身まわり品も制限され、持てたとしても無事かどうかの保証はない。その時、伯教は自分を訪ねて、伯教の言い値で見立てた陶器(李朝十角面取祭器)を買った金成鎮(キム ソンジン)さんを見込んで、浅川巧の日記を託した。どのような世の中になるかわからない。先の見通せない混乱の時に、託すことで日記とデスマスクは生き延びると考えたのだろう。現に残った。
2回目は朝鮮戦争時だ。1950年6月25日早朝10万を超える北朝鮮軍が38度線を突破した。金成鎮(キム ソンジン)さんはソウル(戦前の京城)が北朝鮮軍によって占領され、釜山目指して妻の安貞順さんと逃げた。その時背中のリュックの中に隠し持っていたのが「浅川巧の日記」だった。自分の財産を持てるだけ持って逃げたかっただろうに、自分の貴重品と同じ重みで「浅川巧日記」をリュックに入れていた。途中の太田(テジヨン)の駅前でその夜泊まる旅館を探しに行った夫の金さんを待っていた妻の安さんはリュックの中を調べられそうになった時、お得意の英語をまくし立てて難を逃れ日記を守ったと私に話してくれた。
 そして、1983(昭和58)年高崎宗司先生が森田芳夫さん(『朝鮮終戦の記録』著者)に連れられて日記を見せてもらいにソウルまで金成鎮さんに会いに行った時、日記のコピーを頼むと金成鎮さんはその時は断った。しかし、1996(平成8)年1月、浅川巧全集に載せたい旨を話しに行った時はしかるべき保存できるところがあれば寄付するとまで言われた。
 こうして「浅川巧日記」を私たちも読むことができるようになった。金さんが伯教から預かったものは1922(大正11)年の日記1年間と1923年の7月9月分それに「朝鮮少女」と名付けられた日記風随筆数点、伯教が描いた巧のデスマスクであった。
日記はこの1922年書き始めたので、一月というはじめにという項目を建てている。
この日記を終始読んで感じたことはこのように将来これを出版するか、参考資料に使うように書き留めている印象が強い。それになにより、この日記は原稿用紙に書かれていたのだ。だから伯教はこれは何としても残したかったんだろうと思う。

一月
 恩寵を感じつつ元気で大正十一年を迎えた。今年は出来るだけ日誌を書く様に努めやう。毎日書くための時間が祈りの心になれたら幸福を進めることに益あると思ふ。恵みを浄化することが出来ると思ふ。
 毎日の感謝と祈祷はこの日誌に書かれて行くであらう。省察、懺悔、慷慨、喜悦、悲歎、苦痛快楽の心をその都度写して置いて貧しい生活の記念にし私に慰めたり励ましたりし度い。目を覚まして祈らう。


と「はじめに」を書いて日記は一月一日から書きはじめている。
「恩寵を感じつつ」とキリスト者らしい巧の言葉からはじまっている日誌の冒頭は印象的であるとともにこの日誌の内容を表す象徴的な言葉と思う。「毎日書くための時間が祈りの心になれたら・・・恵みを浄化することが出来る」恩寵(神の恵)と祈祷この二つはキリスト者らしい巧の生きる姿勢を表していると思う。日記は慰めであり励ましである。目を覚まして祈ろう。今の私にとってもこのような姿勢で日記が書けたら自分にとって素晴らしい力になるだろうが・・・・・。
 
一月一日
 日本晴れで穏かで余り寒くもない。部屋を掃除してから政君に手紙を書いた。新年を迎へた悦びの心を伝へるために。午頃から江華の三枝君、家兄、水谷川君(学習院の學生)柳さん、赤羽君など集つて温突(おんどる)で話に花を咲かせた。
 秋以来美術館のために買つた物を皆に見せた。夕方皆揃つて貞洞へ行つた。途中古物屋二、三を見て廻つた。一緒に貞〔洞〕で晩飯をした。小場さんが来て慶州古王陵発掘の話をした。十一時頃帰宅ウヰスキー一杯飲んで寝た。


 政君は山梨県立農林高校で一学年下の浅川政歳のこと。政歳の姉で政歳が紹介して結婚した巧(18911.15生)と同年のみつゑ(1891.12.14生)とは1916(大正5)年に巧は結婚した。翌大正6年娘の園絵が生まれたが、みつゑ30歳の時、大正10年山梨県立病院で死去。そのため娘の園絵はみつゑの実家政歳の家で育てられていた。政歳への手紙は娘の安否を問うものであろう。
 家兄は浅川伯教のこと。終始日記では家兄と言って、伯教が最初に住んだ住所が貞洞だったので伯教のことは「家兄」か「貞洞」という言い方が多い。
「秋以来美術館のために買つた物を皆に見せた」これは浅川巧が1920(大正9)年初冬千葉県我孫子に住む柳宗悦を訪ね、「朝鮮民族美術館」設立が話し合われ、その為の準備として美術館に収めるための美術品集めを日々行わっていることが日記からわかる。
   
 穏やかな師走の一日、もう今年も終わると思っても、思うだけでいつもと変わらない一日が暮れていく。甲斐駒も鳳凰も谷筋の雪が寒そうに、白峯は真っ白で雪の深さが偲ばれる。
 枯露柿作りも仕上がりつつある。寒さも増してきたのでかびる心配はなくなって、順調に柿の表面は乾いて粉も吹いてきた。そろそろこのくらいの柔らかさで食べてみようかなと思って食べればよいのだ。自分で作る特権はいつでも好きな時に好きな固さで食べられること。今年はいつも柔らかいのは好きでないからと食べなかった柔らかいのを食べてみて「ウゥン、おいしい!!」とその柔らかさのおいしさに目覚めた。年をとっても新しい発見はあるものだ。こんなことでも喜びだ。早速、母に食べさせ、叔母にも送った。

 浅川兄弟の故郷今の北杜市の鉄道は1904(明治37)年「韮崎」まで開通した。朝鮮では1902(明治35)年10月1日に京釜鉄道が完成し「釜山」から「京城」まで鉄道が通るようになった。
 浅川兄弟は鉄道に乗るために自宅のある北杜市高根町五丁田からこの韮崎まで歩いて行った。直線で15㌔ほど、3~4時間はかかる。昔の人は歩くしかないから、93歳の母の話でも良く歩いたようだ。
 
 1939(昭和14)年の『陶磁』に小山冨士夫(1900年生~1975年没、陶磁器研究者・陶芸家で、中国陶磁器研究の大家)が「朝鮮旅行」を書いている。彼は京釜鉄道で釜山から特急「あかつき」に乗って441.7kmで京城(現ソウル)に着いた。「あかつき」は、1936(昭和11)年12月1日に設定された朝鮮鉄道唯一の特急列車であり、食堂車、展望車を連結した看板列車であった。下関で関釜連絡線に乗り換えれば、翌日早朝に釜山着、特急「あかつき」に乗車すれば午後2時5分に京城に着く。小山の紀行文によればその「あかつき」に乗車して見た景色を書いている。
 1916(大正5)年を皮切りに戦前21回も京城まで行った柳宗悦はその道中の様子を書いていない。小山冨士夫は釜山から京城までの様子を紀行文の名手らしく記している。小山の文章は朝鮮を今の韓国でいえば南東端の釜山から北西端のソウルまで、車中から見た朝鮮の車窓を『陶磁』に書いている。そして、伯教の家を訪ねた様子も記している。

 「ひさびさに朝鮮を旅した。かつて美しい秋の野を足にまかせて歩き廻ってから十年余りにもなろう。新緑の朝鮮には自ら新らしい感懐があり、寂落たる風物は今更に深く心を牽くものがあつた。~~~~~略~~~~
 関釜連絡の雑踏や検察の厳しさは時局の非常性を識らしめる四月二十九日早朝釜山に着き、特急「あかつき」で京城に向つた。釜山近くの山々にも、日本の山々にも既に日本では見られない特殊な風格がある。やがて、列車は洛東江に沿って走り出した。山湖のような静かな水面に蛾々たる遠山を映した寂寥たる景観が朝の清らかな空気の中に鮮人の貧しい生活が絵のやうに窓に描かれては消えて行く。やがて列車は洛東江に沿つて走りだした。山湖のような静かな水面に峨々たる遠山を映した寂蓼たる景観が、朝の清らかな空気の中に澄み切つてゐる。白衣を着た農夫の行く姿や、山懐にひそんでゐる小さな部落は、静かな景観を一層静かにする。
 突然ひろびろとした縁岸に巨然たる老樹があらはれた。ひろい流れと峨々たる遠山を背景として、寂然一幅の名画を見るやうである。梁楷の雪景山水を連想させるやうな粛乎たるものがあった。亀浦、忽禁、院里と汽車は美しい流れに沿って走り、三浪津を過ぎてから山地にかかつた。釜山から大田までの間は製陶に縁りある土地ばかりである。三島に金海、染山、密陽、昌寧、慶山、高霊、星州、金烏山、善山等の銘の款せられたものがあるが、汽車はこれら窯址群の間を縫ふやうにして進む。明治十年モールスが始めて日本に着いた時、横浜から東京までの汽車の窓から大森貝塚を発見した。これが我が国に於る最初の貝塚の発見だとのことであるが、愚鈍な私の眼力ではこの窯址群の間を走つてゐても、一つとしてそれらしいと思ふものさへ見出すことが出来なかつた。たゞ現在甕壷類を焼いてゐる雑器窯は、院里、新洞、若木、一山、金泉等の駅近くにあるのを車窓から目撃した。山地にかゝつてからは草津電鉄沿線のような高原地帯がつゞく。煙つた雑木の新緑の美しさや、思はぬ山中に子供の遊んでゐる姿や、沿線到るところにある土饅頭の墓の多いことなど見るものすべてに感興を牽かれてゐたが、単調な景色にも漸くうみ、長旅のつかれでうつらうつら居眠りを始めた。汽車が大田に停つて目が覚めた。広芒たる原野の先に鶏龍山の山塊が蜂ってゐる。かつて訪れた山麓の窯址群や東鶴寺のことなどを思いかへしてなつかしかった。大田を発してからは再び単調な山河が続き、単調な農村の生活が車窓に写る。京城に近づいて車内は漸くざわめきだした。前年永登浦の窯をたづねたことがあるが、このあたりの全く面目を一新した工業都市と化してゐるのには一驚した。漢江を距ててギザギザな北漢山の頂きが、天を噛むようにそゝり立つてゐるのが心を躍らせる。午後二時京城着。その日は所用を果して早く眠りに就いた。」

 小山は釜山を早朝発ち、「あかつき」に乗ると京城に予定通り着いている。紀行文は時刻表を見るようで面白い。浅川兄弟も柳宗悦も日本との行き来にこのような旅をしたのかと思える臨場感がある。
 
 「翌三十日朝は浅川さんを御たづねした。鮮人街の一隅にある浅川さんの家は如何にも浅川さんらしい御住いである。庭に雑然と焼損じの壷類のころがつているのも親はしいながめであつた。突然の御たづねを悦んで迎へられ、天井の低い和韓相半ばする客間に通された。室は朝鮮風だが、これに床があり、爐が切つてあるのは、よく浅川の心地を物語るもののようでもある。
 浅川さん兄弟ほど朝鮮を知り、朝鮮人を愛し、その民族性に深い共感を抱いてきた人は少いであろう。然し近年頭髪の目に立って白くなられたとともに、その心地は漸く日本的なものに鎮っておられるのではないかと感じた。永い歳月朝鮮の陶磁器を熱愛し、その美しさを高揚してこられた功績は今更謂うまでもない。又朝鮮のすみすみまで歩いて窯址の発見につとめられ、又わづかに命脈を伝える伝統的な窯の保存に意を用いられた業績は大きなものである。我々は浅川さんの業績が綴った著書となって永く残ることを心から願つてゐるが、浅川さんは近年文筆を折り、世捨人のやうに黙々と「茶」の一路にしづまつておられるやうである。然し独り浅川さんばかりでなく、反町さんにしても、鹽原さんにしても、田邊さんにしても、鑑賞陶磁の錚々たる蒐集家たちが、皆さん茶器蒐めに転向されてゐることは、今日形式化され、死灰化したやうに思はれる茶道が、深い日本人の精神、感覚から生れたものであり、誰もが最後に行き着く魂の安息所だからであらう。爐邊には李朝鉄砂の壷にひたひたと水が湛へられてゐる。眞白の器地に奔放な鉄絵草花文のある実に美しい李朝鉄砂だつた。奥様の御手前で薄茶一服を戴いた。近所で鮮人の大工が家を建てながら歌うなごやかな民話が、釜の音と和して言い難い恍惚さに誘はれる。帰途都合では一二の窯址を訪れたいとその明確な地点の教示を仰いでゐるところへ、伊東槇雄氏が来られ、続いて王子製紙の横井半三郎氏が来られた。」

 1931(昭6)年4月2日に浅川巧が40歳、急性肺炎で亡くなり、親族の嘆きは推し量ることは出来ない。妻咲が巧の前妻みつえの弟政歳に送った手紙にもそれは言葉として残っている。
 その後、京城に住み続けた伯教一家は前と同じような生活を続けながらも、時節柄
「文筆を折り、世捨人のやうに黙々と「茶」の一路にしづまつておられるやうである」。と小山は書いている。昭和14年にして朝鮮に住むということはこういうことかとこの後におこる真珠湾に始まる戦争をどのようにして耐えたのだろうか。
 朝鮮人街に住む浅川宅で、薄茶を飲みながら朝鮮人の大工の唄う民話のような歌、釜の音に恍惚となる小山の感性も好きだ。伯教夫婦は二人の男子を授かりながら一人は育たず、長男は30歳位で亡くなったとか。女子は長女も次女も長生きで、特に次女美恵子さんは今もお元気で娘さんご夫婦と暮らしている。
 浅川兄弟について、あの時代1912(大正2)年朝鮮に渡り、伯教は1919(大8)年まで公立小学校の訓導であった。そして、3・1独立運動がおこった3月に辞めている。その後は妻たか代が梨花学堂(現梨花女子高校)のような私立女学校で日本語や英語を教えながら生活を支えた。その後、1928(昭和3)年から「財団法人啓明会」から研究費をもらうまで主な収入はたか代が支えた。
 巧は林業試験所に勤めた。とはいえ総督府直属の農商工部山林課の雇員であった。巧は亡くなるまでそこに所属した。(亡くなる前、4/3日付けで辞めると巧本人が語っていたという人もいる)。
 浅川兄弟に対しての批判の一つに政治的には問題のあった朝鮮に住み、兄弟は批判的でなく、体制に順応し、植民地朝鮮を支配する側にいた等との批判だ。(巧日記の中では体制を批判している)
 巧は清涼里の官舎に住んだが、彼の死後の母娘は巧の保険で住宅を3軒建て、一軒に住み後を家作として貸し、生活費の足しにした。今もその内の一軒は日本家屋として残っている。
 伯教一家は朝鮮人街に住み、日本人と群れてはいない。1919(大正8)年三・一独立運動後の斉藤総督以来日本は「文化政策」に転じるが、その一環として毎5月に開かれた「朝鮮美術展覧会」には伯教は関わっている。昭和4年に書かれた本人自筆の履歴書にその関わりが残されている。
また、「朝鮮工芸展覧会図録」(朝鮮総督府後援)には伯教の「朝鮮陶磁について」の論文も載っている。
 伯教の考えは芸術なら国境を越え、政治を超えられる。芸術なら民族を超えられるという考えであった。浅川兄弟の朝鮮での生活、朝鮮の人々からの受け入れられようを見ていると、血を流し闘争し、批判し、自己を高みにおくのではなく、日常を共に過ごし、お互いに受け入れられる、受け入れる生活をすることも一つの闘争の姿ではないか。日本の植民地と言う特殊な地で生きたくないとその場を去り、居なければ免罪になるものでもない。総督府の手先であったという言い方の中に含まれるものから想定される批判は日本人なら誰も逃れることは出来ない。私たちは過去を一様に背負っているのだ。どの場に在っても「いかに生きるか」を今の私たちも問われている。浅川兄弟の「いかに生きたか」を検証しても、浅川巧日記を読んでも「あの時代だから仕方がない」という言い訳は滅多に出てこない。彼らを今の時代に置いても遜色ない。やっぱり、今の時代に出逢ってみたいと思う。
 甲府駅にほど近い愛宕山の紅葉の最盛期は近年、12月に入ってからだ。毎年繰り返されるこの四季の移ろいも今年はどうかと気になる。今日11月14日は朝から雨模様で天気が悪い。高い南アルプスの山や富士山では今このとき、雪が降っている事だろうか。晴れたら雪景色の山々が見えるだろう。甲府は「山の都」と言われながらこの素晴らしい山々の持つ景色がスイスの景色に匹敵する美しさを持っていることを私たちはどれだけ自覚しているだろうか。この風景にほれ込んでいる人々も知っているが、日々は何事もなく、この景色も大したことないように過ぎていく。
 その後、晴れて南アルプスの稜線がくっきり見えた時驚いた。この11月なのに3000mの山なみも青山のまま。えぇあの稜線も雨だったのか。今年の11月の暖かさは枯露柿作りに大きな影響を与えているようだ。専門の業者さんでもカビが来て全滅ということも地方新聞に出ていた。35°の焼酎を霧吹きでやるといいとか、扇風機で風を送るといいとかも聞くが、家では今のところ安泰で、夜もベランダ部屋のガラス戸は網戸だけにして閉めないようにしている。
 夜もそれほど寒くないので、星を見ていると野尻抱影(のじり ほうえい)のことを思いだした。彼は1906(明治39)年早稲田大学文学部英文学科卒業。学生時代、小泉八雲の指導を受けた。1907(明治40)年に甲府市の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の英語教師となり、1912(明治45)年まで6年を甲府で過ごす。まだ甲府城内に校舎が在った頃だ。結婚を機に東京の麻布中学校に転任。彼は星の和名の収集研究で知られる。日本各地の科学館やプラネタリウムで行われる、星座とその伝説の解説には、野尻の著作が引用されることが多いという。若くして文学に興味を持ち、小泉八雲に傾倒した。星の和名の収集を始めたのは40歳を過ぎてからであった。収集した情報を『日本の星』および『日本星名辞典』等に集大成して出版し、晩年まで改訂を続けた。1930年(昭和5)年、冥王星が発見される。欧米では Pluto と命名されたが、野尻の提案で和名は冥王星となる。この名は現在、中国等、東アジアで共通に使用されているという。弟は作家の大佛次郎。妻は宗教家・教育者・言語学者として知られる甲府中学校長の大島正健の三女・麗。
 彼の著書に『山・星・雲』がある。これは野尻抱影没後出版された未刊随想で、甲府時代の思い出を随想している。巻頭の-甲斐の春-では1906(明治39)年浅川伯教が師範学校を卒業した、そのころの交流が描かれている。
「わたしは師範訓導の浅川伯教君と、南の市川大門町の寺を訪ねたことがあるが、鉄道馬車から、農鳥と間ノ岳が、刈株の黒く残る水田にはっきりと白く映っているのを見て、春が後もどりしたような感じがした。
 また、そこまで下ると、間ノ岳の北に甲府からは見えない北岳が、まだまっ白にそそり立っていた。「シューマイみたいな山だ」と言って笑ったのだが、次いで「北に遠ざかりて、雪白き山あり、問へば甲斐の白根と答ふ」という古文は、この孤高な山にこそぴったりすると思った。
(途中略)
 こういう春のあいだにも、山国のことで、急に冴え返る日がある。これを土地では昔から「木の股裂け」と言っていた。陽気でぬくまっていた樹々が、気まぐれの寒気に凍って、枝の股がひび割れる意味である。初めてこれを聞いた時、季語としてすばらしいなと思った。それで、庫郎(菊池)君や浅川(伯教)君、後の自由律の秋山秋紅蓼君、そして先輩の飯田蛇笏君をも時どき迎えていたカフフ吟社で、「木の股裂け」を季語として中央俳壇へ提案してはどうかと言った記憶もある」と。同じ甲府で師範の訓導であった伯教とは東京から甲府中学へ赴任してきた野尻抱影と出会って仲良くなったのだろう。

 浅川伯教は父方のおじいさん(俳号6世蕪庵四友)の影響か、俳句や連歌に秀でていた。特に母方の祖父千野真道が亡くなる日に、危篤と聞いて集まった人に「歌を詠め」と言い「全部の人の歌を一枚一枚見て、この中で伯教のが一番良いと言って死んだ」というような人であった。
 伯教が戦後、京城から日本に戻って来て、昔の交友関係が復活したようだ。かつて同僚であった伊藤生更(アララギ派の歌人。短歌雑誌「美知思波」を昭和10年創刊。2014年(平成26年)80周年を迎えた)宛てに短歌を書いて添削をお願いした。その実物も拝見した。伯教の短歌を私は好きだ。

皆が帰国を急ぐ朝鮮にて、朝鮮民族美術館や陶磁研究整理のため残った1945(昭和20)年暮れごろ
 今日も亦茶碗と一日暮しけり かよわき者の 美しきかな
 オンドルの煙の波に沈む町 つづみ長閑けき アリランの唄

戦後千葉黒砂にて      
 秋雨の漏りのかなしき 庵なれど 空も我がもの 海も我がもの

京城から友人安倍能成が帰国する際の送別会で詠んだ短歌
 村々は夕げのもやに沈みゆき 水広山に さし登る月

戦後の短歌
焼跡に煙突黒く月澄みて 秋のあわれを 鳴く虫もなし
やぶれても国なつかしき汽車の窓 山のみどりに 海の紺碧
月見草提灯花におぜん花 庭に咲かせて 故里を偲ぶ
秋風に羽織はをれば老父くさし ひたに偲びぬ 吾祖父のこと
一人居り鏡の前に顔みれば このかおにまで よくも生きしか
如月の炭を貰いにはるばると いくつもくぐる 甲斐のトンネル
西山の奥に世界のあるも知らず 吾が育ちたる 逸見の台かな
昔見し浅尾大根の浅尾原 トタンの屋根が 今は目につく
頭から膝までみそをなすられて みそなめ地蔵 おわしますなり
柳沢黒沢新ごく牧の原 昔先生を していた所なり
八ヶ岳麓の駅にをりも得ず はるかに拝む 故里の暮
春はよし夏も亦よし秋もよし 冬はなおよし 有難き国
破れ茶わん吾身のさがによく似たり いたわられつつ 抹茶頂く

籠り居れば祖国は日々に遠ざかり あれたきままの冬の風かな 伯教
北の方(かた)より駒鳳凰農鳥と 我が目を移す雪の高山 生更
2015年10月15日(木)
 10月の三連休に「尾瀬」を歩いてきた。最初に尾瀬に行ったのは1955(昭和30)年今から60年前だ。尾瀬で一緒になった人にこう言うと、皆一様に「ウゥンッ」と訝しげな顔をして、「あんた何歳だ?!」という顔をする。まぁそれはそれとして、その後大学の時50年前行った時は6月水芭蕉の咲くとき行った。なのに、体力的に力があり、時の勢いで行ったのは全然覚えていない。60年前の子どもの時行ったときは、大人に交って楽しかった思い出で、私の山好きの原点になった。あのころは夢のような尾瀬だった。池塘に浮かぶ浮島に乗って叔父と遊んだ。今はもちろんこんな遊びはできない。浮島も少なくなった。昔の木道は歩きにくい湿原のためにあったが、今は木道しか歩いてはいけない。人間のほうが木道と山小屋しか自由に動けない。他は禁止だ。サファリのように自然界に人間の方が閉じ込められたかたちだ。人間はおしっこもままならない。WCとある所しかできない。それもトイレを使ったら浄化槽維持のためチップ代を100~200円出す。人間がのさばり過ぎてきた結果の象徴のような場所が尾瀬だ。これから私たちはどうなってしまうのだろうか。
 浅川兄弟は若い時、まだ朝鮮に行く前から雑誌『白樺』を読んでいた。『白樺』は、1910(明治43)年創刊の同人誌で、学習院では「遊惰の徒」がつくった雑誌として、禁書にされた。白樺同人たち(武者小路実篤・有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦等)が例外なく軍人嫌いであったのは、学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発からである。そういう意味で若かった浅川兄弟は現北杜市高根の田舎に住みながら時代を敏感に感じ取っていた。浅川伯教は甲府の師範学校へ入って、図画工作の教員になった。教員は生活のため。巧が生まれる前に父は死に、7歳下の弟、3歳下の妹、それに母がいた。当時戸主制度下の長男としては家族を養っていかなければならない。伯教は『白樺』でロダンやセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンら西欧の芸術を知った。その中で特にロダンに傾倒した。それで、1912(明治45)年7月には彫刻家新海竹太郎に入門。その芸術的才能は父方の祖父(俳号を6世蕪庵と言い、近所の熱田神宮境内に句碑が残る)や母方の祖父(千野真道と言い、1966(昭和41)年逝って、60年後「医神両全」のタイトルで顕彰碑が建立)から受け継いだと思う。兄弟は朝鮮の田舎の旅に出たとき、宿で何時も故郷を話題に登らせ、故郷の思い出に浸った。幼い日の面白い田舎の行事や周囲の良き人たちの話を誰彼となく次から次へと浮かぶその追憶を語り更かした。そして祖父のことに話題が入ると「良いおじいさんだったなぁ」と思わず言って話を結ぶ。おじいさんの性質を最も良く受けているのが巧であったと伯教は言う。
 最近の世界は今までの直線型で、最終的に作られたものはゴミとして消費してしまう経済から、循環型の経済に移行しないと有限なものは枯渇してしまうと言う。今、経済が循環型になっていくということは浅川兄弟の祖父の時代のような価値観に戻るということだ。おじいさんたちは何一つ無駄にしないが、欲もかかない。俳句で得た謝礼金は見もしないで入れ物の中に溜め込み、下から使っていく。亡くなった時そこにはもう使われなくなった20銭札もあったという。学問を修め、地域の人のために尽くし、和歌俳句に親しみ、宗教を重んじる人であった。趣味豊かに暮らし、植物にも関心が深くと。巧も小さい時、山から松の苗を取ってきて植えるような子だったという。巧は『白樺』からトルストイを知り、トルストイアンでもあった。新しい時代の息吹を伝えた『白樺』から、新しい時代に生きる糧や芸術を知った浅川兄弟の生きた時代は、今は遠い過去の時代でもある。
 人生はやり直せないけれど、かつて訪ねたその地は訪ねられる。私が子ども時代行った同じ尾瀬ではなかったけれど、人生もそうなのだ。私たちも北杜市高根町の生家周辺を訪ねるとどんなにおじいさんたちが二人の生育に影響を与えたかを人物と自然環境で感じることが出来る。『巧日記』を韓国語に翻訳した金順姫(きむすんひ)氏は翻訳するにあたって、巧の発想や感情を現地に行って感じないと表現できないと、実際韓国からやって来た。
 巨視的に見て世界も、幸せとは何かも、自然保全も根は一つ。浅川兄弟が培ってきた価値観、それは明治の田舎のおじいさんたちが持っていた価値観、ほどほどの幸せで生きること。名を揚げ、富を蓄積し、上から下への目線でない生き方。新しい時代の息吹を伝えた『白樺』から影響を受けた浅川兄弟も結局、幸せは『青い鳥』のように身近にあった。
 家庭に在っては鉄砲玉のように戻って来ず、陶磁器研究に専念していた伯教でさえ、良き父であり、朝鮮人街に住んだ伯教宅には朝鮮人や教会の人など常に人の集うあたたかい家庭であった。家族思いで誰にも優しかった巧が40歳で亡くなった時、妻の咲はどんなに嘆き悲しんだことか。叔父政歳宛て手紙を読み返すたび私はいつもジーンとくる。
 尾瀬からの帰り、会津高原尾瀬口駅までのバスは2時間近く東北の真盛りの紅葉のトンネル道を走り、桧枝岐村など福島の村々を抜けて走った。私は地方で生きている人々の家々を見た。コンビニなどは一軒もなかった。
 そして、尾瀬に象徴される循環型、リサイクル社会に私たちも協力しないと生きていけない社会に移行しつつあることを思った。浅川兄弟のように田舎で育ち、田舎を持つ幸せもバスに揺られながら思った。都会ばかりが膨らんでいく社会、田舎はどこも過疎になりつつある社会、これからの日本経済は循環型のリサイクル経済を目指すと言いつつ、人口増についても循環型の社会を目指さないといけない。過疎と限界集落に若い人たちを呼び込み、動態人口に於いても循環型になって行く手立てはないものか。今、若い人たちに影響を与える『白樺』のような雑誌はない。時代を象徴し、影響を与えるような雑誌はつくられないだろうか。そこで、これからの社会を読み解き、生活を生み出す仕事を創造していく若者は現われないものだろうか。いいや最近のニュースで、こういう若者を紹介しているのを見た。私は新潟で無農薬でお米を作っている一家を知っている。家までも手作りで作る。つくれるものは自分でドンドン作ってしまう。もっと別の時に紹介したい。新しい時代の変化は最初、徐々に現われるものだ。私たちは難しい時代だが、新しい時代を生きているのだと実感した尾瀬山行だった。 
2015年10月8日(木)
 先日のシルバーウィークの時、近江八幡・今津に行ってきた。目的はウィリアム・ヴォーリズの建築を学んで来たいの一点で、一途な思いで出かけた。一日地元の建築家でヴォーリズ研究家、一粒運動の推進者でありヴォーリズに関して様々な活躍をしている方に案内していただいた。地元には地元に根を下ろした人、またその作品を大切にしている人がいる。
 私はヴォーリズに関して、最近まで名前と建築家程度しか知らなかった。近江兄弟社やメンソレータムはそれとは別に知っていた。でも、それらがヴォーリズと言う一人の人を介して繋がっていたことを全く知らなかった。それに近所の宣教師館をヴォーリズと言う人が建てたということは聞いていたが、あまり関心を持っていなかった。そのヴォーリズについて、ネットと本で知って、「びっくりしたなぁ」と言うのが本音。
 ヴォーリズ本人が書いた伝記の中、印象的なのは1905(明治38)年2月2日、日本の寒い冬の真っただ中アメリカからたった一人で24歳の時この近江八幡にやってきたこと。それも宣教師団体の派遣ではなく、たった一人で伝手は近江八幡の商業学校の英語教師としてだけ。駅に英語のできる同僚が迎えに来てくれなかったらどうしたことであろうか。日本語も全く分からない状況で、英語教師はお金のないアメリカの若者が唯一出来る生活の手段。ここまで彼を突き動かしたのはキリスト教を伝道したい。それも宣教師と言う訓練も資格もない平信徒で。この情熱は信仰だけで強くなれるんだろうか。ところが、二日目に奇跡が起こった。奇跡と言うのは本人が望んでいないことだったら奇跡にはならない。夕方、宮本文次郎と言う青年が訪ねて来た。彼はいきなり「あなたはクリスチャンですか」と質問した。日本に来る目的の「一人でもクリスチャンを!」と言う願いが最初の二晩目にかなえられたのだ。一年や二年はかかると祈っていたことが最初から与えられた。こうしてヴォーリズのネットワークはキリスト教を柱に宣教と生活の手段として、大好きな建築設計の仕事・事業としてメンソレータムの販売などを後の会社名「近江兄弟社」を中心にして拡大していった。兄弟社は実の兄弟の会社ではなく、キリスト教的考えの人間兄弟姉妹の兄弟だったことも分かった。ヴォーリズは事業を大きく出来たが、自らを売り込むことはしなかった。ヴォーリズの名前は全国に知れ渡ってはいない。少なくとも山梨までは。
 浅川兄弟のことも地元は今でこそ知っていて、山梨県近代50傑に選ばれ、県庁別館(昭和5年の重厚な内装を持ち、最近創建時に甦った。甲府空襲の際、米軍は占領後を計って県庁と駅は焼かない方針の成果として残った)の中に近代人物館が設けられ展示はされている。映画にもなったが、全国的知名度は薄いと思う。
 浅川巧は40歳、肺炎で急死した。しかし、日記を書いていたので、兄伯教は敗戦後朝鮮から引き揚げざるを得ないとき、没収の憂き目にあいそうな巧の書いた日記を、自分の自宅に白磁を買いに来た金成鎮(きむそんじん)と言う人物を見込んで託す。彼は朝鮮人の中では有名な浅川巧を尊敬していたので、驚いた。朝鮮戦争の時は、日記を妻と釜山まで逃げる際、自分たちの貴重品と共にリュックに隠して守った。その存在を知った高崎宗司氏(津田塾大学名誉教授『朝鮮の土となった日本人 浅川巧の生涯』の著者、故郷の親戚さえ知らなかった兄弟の足跡を詳しく調査した)が一度は断られながら、公共の場があるなら寄付するという言葉を一つの契機に「浅川伯教・巧資料館」が建てられ、今はそこに保管されている。『巧日記』としても出版もされている。巧の急死を電報で知った友人の柳宗悦(民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者、「日本民藝館」創設)は「あんなに朝鮮のことを内からわかっていた人を私は他に知らない。本当に朝鮮を愛し朝鮮人を愛した。そうして本当に朝鮮人から愛されたのである」「取り返しのつかない損失である」と嘆いた。高崎宗司氏は柳宗悦があんなに褒めちぎっている浅川巧とはどういう人物だろうかと。柳があんなに褒めちぎっているのに伝記さえない人物、誰も取り組んでいない人物として調査した。鶴見俊輔らの『思想の科学』に勤務していた時で、浅川兄弟の連載を勧められた。若く無名の高崎宗司氏を認め、書く機会をつくり、適切な助言を与え、育ててもらった。「鶴見俊輔さんは名編集者であり、名教師であった」と2015年7月20日逝去に際し『民藝10月号』に追悼している。草風館の主宰者内川千裕がその連載に目を留め、出版した。映画(実名を使いながら内容はドキュメントではない)も上映された今だけれど、浅川兄弟は全国的にどのくらい知名度があるか、わからない。
 ヴォーリズは「他人が書くくらいなら自分が書く」として最晩年『失敗者の自叙伝』を残し、事実に対し自らの真情も吐露している。それも死後、昭和45年初版発行された。昭和16年帰化後の名前「一柳米来留(ひとつやなぎめりる)」著者名で、近江兄弟社版権所有者として。
 ここで、知名度競争しても仕方がない。浅川兄弟のことはよく知っている地元の人間も、滋賀県から離れた山梨に於いてはヴォーリズのことはほとんど知らないと思う。キリスト教を通してヴォーリズに関心を持った私は、その人間性にある共通点に心を奪われた。功名心も私腹欲も無く、ただひたすら自分の関心あること、好きなことを追い求め、研究した。仕事とした。彼らは共に、仕事、作品、著作、自伝や思いがけず日記も残したが、83歳で亡くなったヴォーリズは最晩年国からの黄授褒章や死後勲三等瑞宝賞を受けた。兄弟はもちろん何もない。しかし、当時の朝鮮人には心に残る人物として慕われた。安倍能成(漱石門下・京城帝大・旧 一高・文部大臣・国立博物館長・学習院長)も「正しい 義務を重んじる、人を畏れずして神のみを畏れる、独立自由な、しかも頭脳が勝れ、鑑賞力に富んだ人は、実に有り難い人である。巧さんは官位にも学歴にも権勢にも富貴にもよることなく、その人間の力だけで堂々と生き抜いた」「朝鮮のために大なる損失であることは言うまでもないが、私はさらにこれを大きく人類の損失だというのに躊躇しない」と残した。それは昭和9年頃、旧制中学用国語教科書に『人間の価値』として掲載された。
 ヴォーリズも多くの教え子たちが共同事業者となり、その会社ではクリスチャンになると給料が高くなった。子供が増えると増えた人数分給料が上がった。教え子吉田悦蔵著『湖畔聖話』(大正15年初版)の中で「バイブル(聖書)を教えた罪で学校を免職になりました。学生の寄宿舎の食費はいくらですか」と問われ、「4円50銭です」と答えるとヴォーリズは「神よ私に毎月4円50銭だけ下さい」と声に出して祈った。それを聞いた吉田悦蔵は「親譲りの財産をこの異人さんの事業に投げ込み、共同の財布で20年近く暮らしてきました」と書き残している。事業が成功しても自分の持ち分は食費など必要な分だけと言う生活は周りの人たちから精神と行いと一致していると信頼を生み出していった。
 賀川豊彦(キリスト教社会運動家、社会改良家。「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。平和学園の創始者)は吉田悦蔵著『近江の兄弟等』の「趹」にヴォーリズは「いついかなる時でも快活で一生懸命である。天才である。彼は日本のために天才を自ら殺したのだ」と。
 今の私はこの方たちに逢ってみたい。話をしてみたい思いでいっぱいだ。
 『彼は明確な頭脳と温かい眼との所有者であった。しかしそれらを越えて私を引き付けたのは、その誠実な魂であった。彼程…自分を捨てる事のできる人は世に多くはない』柳宗悦
2015年9月23日(水)
 異文化の受容とは
 元号は混乱のもとで最近は平成を個人的には全然使っていない。それで、今年は平成何年かいつもわからなくなっている。しかし江戸時代が終わって、明治、大正、昭和と歴史が経ってみると、西暦ではわからない元号の時代の空気の違いを感じるのである。
 明治時代に怒涛の様にやってきた西洋の波を日本人は「人」を通して受け入れてきたように思う。また、逆にやって来た西洋側の人間で有名になった一人に小泉八雲 (Patrick Lafcadio Hearn、1850年6月27日生)がいる。彼は明治23年(1890)39歳のとき記者として来日。その後まもなく、島根県松江市の尋常中学校及び師範学校の英語教師となる。ここでは、松江の風物、人情が大変気にいった。そして、武家の娘小泉セツと結婚したが、冬の寒さと大雪に閉口し、1年3ヶ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ移り、さらに神戸クロニクル社、帝国大学文科大学(東大)、早稲田大学に勤務した。日本の伝統的精神や文化に興味をもった八雲は、多くの作品を著し、日本を広く世界に紹介した。明治29(1896)年に日本国籍を取得し、島根の旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞「八雲立つ」に因み「小泉八雲」と名乗る。 明治37(1904)年9月26日、狭心症のため54歳で逝去した。八雲は明治と言う時代の日本には普通にあった日本情緒を特別なものとして日本人にも認識させた。
 浅川伯教・巧も朝鮮に行き、当時は色濃く残っていた李朝時代につづく生活(白磁のような陶磁器や朝鮮の人たちが普通に食べていた食事など)を、自分たちの日常の中に取り入れ、それを愛した。植民地の支配者側にいた日本人は朝鮮に行っても日本式生活様式(食事・住居・服装・言語など)を崩そうとしなかった中で、巧はいち早く朝鮮語を覚え、現地人のように駆使し、現地の寒さの中では暖かい朝鮮服を着て過ごした。その中でも朝鮮の人夫たちが朝鮮カラマツなどは冬の寒さに充てると芽吹くということを朝鮮語で話しているのを学び「露天埋蔵法」としてその成果を勤め先の朝鮮総督府林業技手として発表した。
 伯教は日本人の中で茶碗は、室町時代前半まで、中国産の「唐物」が最高と考えられてきたが、その後茶人たちが朝鮮の「井戸の茶碗」と名付けられたものを愛したことから、そのルーツを調べようとした。これは民衆の安物の量産品で、釉薬のかけ方も乱暴だが、形は素晴らしいものであった。意図せずに生まれたその姿を茶人たちは「わび」の美として評価した。中でも最高のものは国宝「喜左衛門井戸」(朝鮮・李朝時代16世紀)で、それはどこで生まれたのか、作陶者は名もなき陶工であったとしても、土はどこであったのか、窯跡を自分で探し、朝鮮半島700か所をも捜し歩いた。このように朝鮮の人も認識していなかった日本の茶文化から認められた陶磁器のルーツを探す、地味で報いの少ない研究に彼は没頭した。
 浅川兄弟は自分たちの感性で朝鮮の生活、研究を楽しんで過ごした。ラフカディオハーンは日本の生活の中で日本人の発する生活音やたたづまいを自分の五感で察知し、それを文学の世界で表現した。ハーンは明治と言う時代の日本を表現した。
 浅川兄弟は日本で育つ中で雑誌『白樺』に触れ、キリスト教の教会に所属し、キリスト者となってその精神・信仰で生きた。それらは明治から大正時代がかもし出す、若者たちが醸成した時代の風潮であったかもしれない。それらを花開かせたのが朝鮮と言う場であり、李朝文化への傾倒であった。なかでも朝鮮の工芸を継承し、本にして残し(『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』『釜山窯と対州窯』『李朝の陶磁』など)、今の韓国人に引き継いでいる。
 このようにして、お互いの文化、時代の持つ特色をみごとに掌握し、受容している。ハーンも浅川兄弟も国籍を超え、相手国の文化・生活を愛し、今も愛されている。
2015年9月14日(月)
 異文化交流に関心がある。日本が明治を迎えると同時に欧米圏の、特に宣教師たちはキリスト教を伝える目的で日本に進出して来た。宣教師の思いは実に純粋であった。世界を見ると、政治家はその彼らを利用して政治的目論見を持って植民地化などの侵略を果たした国、地域もあった。日本は宣教師に関係なく中国・台湾・韓国を植民地化した。日本は他国を植民地化したが自国はされなかった。(こんなに簡単に言うべきことではないが)
 私が勤めた学校は1889(明治22)年創立された女子校であった。2015年で126年経つ。創立には地元の若者たち(代表者は25歳) が地元で資金を集め、女子の学校を建てるべく奔走した。しかし教育を担うべき教師をカナダの宣教師会に派遣を頼んだ。カナダの宣教師会は25歳の教育と訓練を受けた女性を派遣してきた。
 カナダの宣教師の教育を受けた女子校生は学校教育の中でどのように異文化を受け入れていったのだろうか。「欧米かぶれ」と揶揄されながらも異文化をどのように受容していったのだろうか。
 恵まれた境遇にあった女子とはいえ女子蔑視のまだまだ強かった明治の時代。家の都合で遅刻をやむなくしても弁明ができない。ただメソメソ泣いて窮状を凌ごうとする。そんな女の子に対し、宣教師たちは近代に生きる女子は時間をきっちり守ること。すぐ泣かないこと。規則正しく、片付けをきちんとして生活する。廊下を走らず、大きい声で話さない。昨2014年朝ドラの「アンと花子」の村岡(安中)花子が受けた東京の東洋英和の教育もまさしくそのような教育で、花子の時代の校長ブラックモア(ドラマでは別名。山梨英和で二代目の校長でもあった)は厳しくお仕置きをする規則の権化のような教育を信条としていた。こういう教育が昨年は全国に知らされた。そして、英語教育は宣教師譲りの発音で、ネイティブのように教育された。
 浅川伯教の糟糠の妻たか代はそんな山梨英和を1905(明治38)年卒業し、東洋英和の高等科(3年)に進んでさらに勉学した。そこではブラックモア校長の下、村岡(安中)花子と3年間一緒の寄宿舎生活を過ごし、先に卒業している。村岡(安中)花子は卒業後、山梨英和の教員として5年間勤めた。
 浅川たか代は日本の植民地化朝鮮の京城(ソウル)で、夫伯教が鉄砲玉のように陶磁器研究(窯跡や陶片の採集)に出かけている間を今の梨花女子高校などで教員をしつつ支えた。娘さんの話では100円位の給与で、子どもたちを育てたという。当時内地の給与でも30円40円位だったそうなので、朝鮮での給与は恵まれていた。それも教育を受けていたから出来たこと。たか代は1970(昭和45)年1月83歳で亡くなるまで、コーヒーはカッフェとネイティブ発音であったと聞く。伯教と揃ってクリスチャンであり、聖書を読むこととお茶のお点前を日常的にたしなむ生活で晩年を過ごした。お茶を楽しむことはお手前をするときだけでなく、お茶の作法で生きること、生活することが日常であった。出かける時、三つ指ついて夫伯教へのあいさつなど、教育の力が生活の背骨になっていた。西洋の宣教師の先生方の信仰と教育の姿勢、近代女性として生きる生活の姿勢、聖書に聴くことで信仰を深め、実践する。このように欧米文化をもたらした宣教師の姿勢を受容し、一生を貫いて行った浅川たか代を異文化の賜物を受容して生きた女性として、私は尊敬している。
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